あああああ!
俺としたことがとかいうまるで自惚れのような恥ずかしい言葉を吐くつもりはないが、いっそ憤死したいくらい俺は今羞恥心に苛まれている!頼むから俺のことは放っといてくれないか古泉!







Good bye,my majesty!








季節柄というか間取りのせいというか、俺の部屋の窓には、年がら年中に渡って朝日が差さない。冬、朝日に耐えられなくなって目を醒ますという人体的にベストな起床を迎えられることは残念ながらなく、しかし窓さえ開ければ涼しいこの部屋は夏場には快適である。まあ、布団が暑くて目を醒ますなんてことも割りかしあるにはあるが。
今回も例に漏れず、そんな嫌な起き方だと思った俺は、ん、と首を傾げた。寒い。暑い。熱い。寒い。加えて体が、というより頭が動かない。足先から這いずり上がるような寒気に俺はエアコンのリモコンを探した。
(部屋に個別でエアコンがある家に住める贅沢な学生なんて、下宿している人間の中じゃきっと俺が一番最初に列挙されるんだろうが)なかなか都会近郊という便利な場所の、しかも駅に近い、ある意味一等地に位置するこの住宅地は熱帯夜なんてそう珍しいでもないが、俺はあまりエアコンのかびくさい空気を好かず、除湿だけのためにしかエアコンは使わない。ドライ機能は良いぞ、窓を開けてもどこぞの密林地帯みたくむしむしするこの地域でも除湿さえすればかなり楽になる。
しかし、今の俺は傍目から見れば、エアコンをつけてがたがた震えて、何やら頭の弱い奴のような有り体である。


「あ…あー…」


喉を痛めて声すらも出しにくいが、それは単に乾燥した空気のせいだと思いたい。エアコンの快適さにかまけて体調を崩すなんて子供のやることだ。
今は何時だろう。今日の講義は何時からだったか。国木田に代返を頼まなければならなくなるやもしれんと、ぼんやり熱をおびた頭で考え、エアコンを切って布団にくるまる。携帯電話を手探りで探すのも億劫である。というよりも節々が痛くて泣きそうだ。
熱で腫れて痛む首を巡らせて、枕元の時計を見る。六時ちょい過ぎ。実家にいたとき妹に起こしてもらわなければならないほど寝起きの悪かった俺が、早朝に類するこの時間帯に起きるなど珍しいにもほどがある。やはり熱が高いのかと深呼吸をひとつふたつ、俺は思いきって体を起こした。途端に頭やら肩やらに必要以上の重圧を感じ、目眩でベッドに逆戻りする羽目になりかけるが、喉がたまらなく渇き、ついでに薬と体温計を取りに行くことが肝要かと思われたので、ゾンビよろしく前屈みの劣悪姿勢でリビングに向かう。これで薬がなかったら古泉に買ってきてもらわねばならないだろう。そんなことは頼みたくない。見栄だろうと何だろうと、下手に頭の良いあいつの何かしらの失望を買うのは少々恐ろしい。
何やらあいつは、思春期にありがちな大人とか、世界とかに向ける厭世気味な目が人一倍強い。あいつの家庭環境を思えば無理からぬことかもしれんが、やけに斜に構えて物を見て、そして少しの期待を裏切られては、やっぱりと諦念に駆られているように思えた。そんな荒んだまま大人になってほしくはない。


「…何考えてんだろうな俺は。あいつの親じゃあるまいし」


熱のせいだ。そういうことにしといてくれ。
幸い鼻や喉にくる風邪じゃないらしく、付随する害悪的なオプション(咳だったり洟だったり諸々だったり)は限りなく少ない。熱が下がれば大学には行けるだろうと思い、蛇口に口を近付ける。痛い。背中が折れそうだ。
あいたたた。
火照る頭に生温い水道水は、しかしながらも冷たいくらいに感じる。目分量で熱が相当高いと判断。タオルを出して水に濡らす。そういえばどこかで頭より脇を冷やした方が良いとか何とか聞いたことがあるが、あれはどこまで本当なんだろうか。


くら、


ああ、もう駄目か。思ったときには膝から崩れ、俺は洗面所で横を向いた格好で倒れていた。頭を打ったのか、見えてる範囲がきゅっとせばまり、床に落ちた頭はまだ左右に振られているような感覚が残っている。痛みはない。床が冷たくて気持ちいい。
水が出しっぱなしだ。せめて止めたいんだが。
腕を伸ばしたところで、古泉が部屋から出てきた。既に衣替えして半袖になった制服を着ている。お早いご起床で。俺は舌打ちしたい気分だ。


「…何してるんですか」
「こけた」
「顔、赤いですよ」
「打ったんだろ」


立ち上がり、水を止める。古泉は胡乱気な顔で俺を見ていた。びしょ濡れのまま床にくったりのびていたタオルを拾い、洗い直して絞ってから顔を拭く。あー…気持ちいい。また熱が上がったようだ。頭がぼんやりする。眠い。目を開けていられない。


「俺はまた寝るから、悪いがゴミ出しと戸締まり頼むな」
「ちょっと、」


何だやかましいな俺は眠いんだついでに言うと風邪真っ最中だ感染されたくないなら俺に構うな頼むから。
ぴた、と頬に何か張り付く。中途半端に冷たくて、やっぱり気持ちいい。古泉は目を丸くして 「ねつっ!」 と叫んでどこかへ飛んで行ってしまった。何だ、古泉の手か。男に熱を測られるのもぞっとせんな。俺は誰もいないのに、へらへら笑った。そろそろ表情筋がおかしくなったかもしれん。
戻ってきた古泉は氷嚢と氷を抱えていた。氷枕を作るらしい。あーあー、後は自分でやるからお前は学校の準備しろ。朝飯食いっぱぐれるぞ。


「何言ってるんですか、あなたひどい熱なんですよ!」
「いや、別に、っていうかおい、何すんだ放せ」
「どうせ洗面所で転がってたのも倒れたからでしょう?そんな人をうろうろさせるわけにはいきません。迷惑です」


あーそうかい。そりゃまたずいぶん正直な意見だな。嫌われたもんだ。
古泉は俺をベッドに押し込むと、氷嚢に氷をざらざら詰めて俺の頭の下に敷いた。この暑い季節に氷枕は嬉しいが、足先から首まで布団を被せるのは何の拷問かね一体。暑っ苦しい!


「粥か何かとオレンジジュースを買ってきます。薬はありますか?」
「前にお前が使った奴があるんだろうが、探したが見つからん」


しかし何故にオレンジジュースなんだ?


「アメリカでは定番ですよ。水分と糖分が一度に取れるかららしいですけど」
「あ、そ」


無駄に博識だな。お前は帰国子女か何かか。
古泉は手際よく水の入ったコップを用意し、体温計を俺に渡して財布を持ってきて言った。


「熱を測っておいてください。喉が渇いたら一先ずその水を飲んで、」
「お前学校は、」
「遅刻します。熱が下がったら一緒に病院に行きましょう」
「ひとりで行ける、」
「横着なあなたのことですから、単車に乗るつもりでしょう。事故になったら風邪どころの騒ぎじゃありませんよ」


ぐうの音も出せやしない正論だ。今の俺にベスパで安全運転できる自信はない。事故になったらなったで、森さんにも迷惑が及んでしまうだろう。にしても、古泉がそこまで俺のことを予測できるとは意外である。推測しやすいほど単純なのだろうか俺は。
ああ、眠い。背中が痛い。
どうして風邪なんか引いたのだろう。元から不摂生だったかもしれんが、あれか、ハルヒが夏休みを待てず決行しやがった孤島ツアーでの疲れが今更出てきたのか。崖から落ちたり、古泉とその他島の関係者による心臓に良くない寸劇に奔走したりしたのが悪かったのか。なんてこった。俺自身のせいじゃないではないか。踏んだり蹴ったりだ、ちくしょう。
そういえば代返頼むの忘れてたな。
古泉が扉を閉める音を遠くで聞きながら、俺は背中を丸めて目を閉じた。







四ヶ月。
(彼女に付き合って行った小旅行で疲れたのか、彼はどうやら風邪を引いたようだ。疲れの一端は僕らにも原因があるらしく、罪悪感がないとも言えない。洗面所で倒れていたのには肝を冷やしたが、それを隠して自分で何とかしようとしているのを見て少し腹を立てた。そんなに僕に弱みを見せたくないか。そんなに僕が頼りなさそうに見えたか。憤る理由もわからないまま最寄りのコンビニから帰ってきたら、彼は背中を丸めて寝入っていた。
相変わらず小綺麗に使っている部屋である。水は減っていない。手首を握ると、また熱が上がったように感じた。僕の手はあまり暖かくないので、熱を持った彼は余計に熱かった。彼は少し寝苦しそうにしている。僕も一、二ヶ月前に風邪を引いたので、それはよくわかる。熱が節々に回ると軋むように痛むから、なかなか好きなようには寝られずに、窮屈な思いをするのだ。
彼がしてくれたのと同じように背中を撫でる。そこも、蝋燭の火が灯ったように暖かかった。
今日は病院に行くのは無理かもしれない。彼に車を運転させるのも危ないし、僕はそもそも運転できない。こんなに無力な子供であることを悔しく思うのなんて久しぶりだ。
なんでだろう。明日も彼がこのままだったらと思うと、同情するのとは別に、少し嬉しく感じる。彼はいつも自分で選択できる強かな大人であっても、こうして弱ることがあるのだと、わかるから。
その背に僕の腕はまだ届くのだ。)








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(080628)