古泉が夜中に出かけて、しばらくしたら手ぶらで帰ってくる、を繰り返している。もしかしたら先日俺が真夜中トイレに赴いていたときに奴が帰ってきたことがなければ、これからも気づかなかったかもしれない。
あまり口煩く言いたくはないのだが、補導されたら森さんがいない今、保護者代わりに俺は古泉を引き取りに行かなければならない。大学生の保護者に中学生の素行不良。警察が怪訝に思うには十分すぎるだろうシュールな絵だ。
あまり夜遅くに出歩くなよ。
そう言うと古泉は美形にあるまじきすごい顔で睨んできて(おお、反抗的!)、なら彼女に文句を言って下さいよといって荒々しく部屋へ引っ込んだ。
彼女って…恋仲を言うあの「彼女」だろうか。
Good bye,my majesty!
「すみません。ちょっとこれを拝見していただきたいのですが」
馬鹿丁寧な前置きに食器を洗う手を止めて、俺は横まで移動していた古泉に目を向けた。
古泉の差し出す紙を、手を拭いて受け取る。紙の冒頭に『三者面談』?
「ああ、進路関係だな」
三年に進級してクラスが落ち着いたと思った矢先にこれだ。この時季まだ行きたい高校を決めてなんかなかったぞ俺は。
「森さんはどうもご多忙なようなので、話を聞くだけでかまわないのであなたに出席していただきたいのです」
「別にかまわんぞ」
即答した俺に古泉は驚いたようで、僅かに眼を丸くした。こういったときの古泉はとても子供らしく好ましいので、俺は古泉に見えないように小さく笑った。
「…いいん、ですか?」
「お前の進路を決める面談なんだろ?何を遠慮することがあるんだ」
何故か古泉は眩しそうに目を細めた。
俺は普通に講座があるから、教授に話して許可を取るか、ハルヒか長門―谷口は駄目だな―に代返してもらおう。そんな不真面目に座学を受けているつもりはないが、いたずらに教授の心象を悪くする必要もあるまい。
「曜日はいつでもいいが、時間はなるべく遅く頼む」
「はい」
古泉から受け取った紙をカレンダーに貼り、食器洗いを再開する。古泉は何かしら言おうとしたのか、俺の手元を眺めて口を開き、結局何かひとつも零さずに閉じてしまった。
古泉と暮らすにあたって、古泉は俺にいくつか要求をした。朝食は先に起きる古泉が用意することと、互いの部屋には不可侵であることを約束したのである。部屋に許可なく入るのは俺の価値観からもいただけないから、言われずとも、ではあるが、朝食を作ってくれるのは有難い。おかげで俺の睡眠時間がちょっぴり延びた。今までは全部自分一人で請け負っていたからな。
「…風呂掃除でもしましょうか」
「は?」
つまり、そういうことである。
古泉はまだここを自分の家と受け入れられず、他人行儀でひどく居心地の悪い思いをしているのだ。少し寂しいが、かわいいじゃないか。
「じゃあ頼む」
ちょっと笑うと古泉はむっとして風呂場に向かってしまった。少し遅れて水音が聞こえてくる。
古泉がうちに来てから、既に二ヶ月以上が経っている。肌寒い雨が降ることはなくなり、早くも夏の盛りを憂うくらい気温が高く蒸されるような日が続いている。が、相変わらずも古泉は無表情を標準装備にしていた。笑顔どころかちょっと緩んだ顔も見れていない。精々苦笑いか疲れているような笑みが関の山だ。学校でもそんな仏頂面なら損なことこの上ない。少なくとも人間関係を含んだ上で考えるなら、やはり少しくらいの笑顔があった方が心安く感じるだろう。高校のときからやる気のない顔であると不本意な定評をいただいている俺が言うのもなんだがな。
「さて、レポートでもやるか」
古泉の兄貴分を気取ってはいるが、俺もまだ学生という未熟な身分なのである。
*
古泉の担任は、学校帰りの普段着でそのまま来た俺を見て、すごく微妙な顔をした。生憎だが俺は衣服で着飾る精神にあまり理解がなく、余所行きの服だってないに等しいんで、そこは深く追求しないでいただきたい。
「保護者の森には私から説明しますので、今日のところは役不足と承知でお話をお聞かせ願えますか」
少し白髪が目立ち始めた年頃の男性教諭は些か戸惑いながら中間テストの結果を俺に見せた。平均偏差値68.7…うーん、俺は東大を目指している奴のテスト結果でも見ているのだろうか。それともここの学校のテストが簡単すぎるのか?
「ご覧の通り勉強方面では優良となっています。ただ、少々交友関係でお尋ねしたいことが…」
「何ですか?」
「いや、その…学校ではあまりクラスメイトと一緒にいるところを見ないので…給食も一人で食べているようなんですが、家ではどうなのかと思いまして」
やっぱりかこのやろう。
呆れるくらい予想通りでちょっと拍子抜けしてしまいながらも俺は古泉を見た。良くも悪くも古泉は能面の顔のように無表情を保っているが、よく見れば少し眉が寄っている。滅多なことは言って欲しくないのだろう。夜にどこかしら出歩いているなんて話題はもはや禁句だ。携帯電話は持っているみたいなのに、本当に友達一人すらいないってこともあるまい。やれやれ、ちょっとはいいお兄さんぶって古泉の肩でも持ってやるかな。
「別に問題にするほどではないですよ。家の手伝いもよくしてくれてますしね。そういえば来週は前の学校の友達と遊びに行くって言ってなかったか、『一樹』」
古泉は目を皿みたいに丸くしてこちらを向いた。俺は不自然にならない程度に古泉の足先を蹴飛ばす。保護者代わりが苗字呼びはまずいだろ。気に食わんかもしれんが便宜上だから我慢してくれ。
「昨日夕飯のときに言ってただろ?」
「あ、ああ。確かに」
「まだこっちの学校に慣れてないせいかもしれないので、交友関係に問題があると思われるのは早計ではないでしょうか」
俺は古泉と温い笑顔を浮かべて、まだ何か言い足りないような教師の追尋を黙殺した。初めての共同作業が教師をだまくらかすこの有り様だなんて、情けなさすぎて涙が出るね。
「どうして嘘なんか言ったんですか」
べスパに乗せて古泉を連れ帰ったあと、夕食を摂りながら古泉はこんなことを言い出した。いつもは辛気臭く無言の晩餐に甘んじているのに、食事中に喋りだすなんてと物珍しげに古泉を見ていると、聞こえなかったと取ったのか、古泉はまたむっとして同じ言葉を繰り返す。
「…お前もうちょっと愛想よくしろよ。無理に友達作れってわけじゃないが、せめて会話ができる程度には」
「それがどう関係あるんですか」
「後々面倒なことになるかもしれんのだから最低でも遊べる友達はいるって言った方がお互い都合がいいと思ってな。子供じゃないんだからいちいち先生に気にかけられるなんてお前も嫌だろ?社交性は…まあ中学では必要ないかもしれんが」
「それはそうですけど…意外と賢しいんですね」
「素直に世渡りが上手いと言ってくれ」
今年からは俺も院に行くか就職活動に本腰を入れるか、本格的に選択を迫られるだろう。古泉には申し訳ないが、逐一中学校からの介入に手を焼いていられない。保護者代行にあるまじき有り体だが、森さん不在の今はせめて俺が、いつまで一緒に暮らせるかわからないが、無事に古泉が暮らしていけるような環境にしてやれるくらいの社会性を身につけねばならないのだ。
「別に頼んでいませんがね」
「かっわいくねぇ」
味噌汁を飲む憮然とした顔が少しだけ綻んでいるのは、敢えて指摘しないでやった方が良いのかね。
二ヶ月。
(この人はあまり笑わない。いつも何故だか斜に構えて、けれど笑うと少し幼くなる。
正直言って、彼がここまで逞しいとは思わなかった。彼も打算に満ちた大人と何ら変わらないことをまざまざと見せ付けられたが、失望はなかった。寧ろ自分を子供だと侮ったり不甲斐ないところを見せるのを厭うて見栄を張り、言い訳をするよりはずっとあからさまで清々しい。
不意に下の名前を呼んだ彼の声が離れない。ぐるぐる、ぐるぐる回って、)
「古泉、どうした?」
(下の名前で、呼んでくれないだろうか)
next 06>>
(080525)