古泉が倒れた。
Good bye,my majesty!
四月に入り、古泉は、着るのは今年が最後になるかもしれない黒い学生服に袖を通し、年のわりには丁寧に使われている指定鞄を片手に学校へ行き始め、俺も講座のガイダンスを受け、ようやく新年度という言葉が相応しい空気になりつつあったこの頃。
小雨の合間のように晴れあがった空と、雨で茎ごと落ちてしまった葉桜を見物する余裕もなく、まだ月の半ばまである少しの休みを惜しみつつ、休みの始めにバイトを入れたせいで怠けていた課題のレポートを、いざ、やっつけんがために娯楽の少ないリビングで用紙を広げていたとき、カウンターにある電話が鳴った。
「うぉう」
バイトや大学の関係はほぼあらかた携帯電話で応対しているため、かかってきたとしても、どこで個人情報が漏れたのやら、家庭教師の勧誘もしくはそれに類するその他である。留守電に任せてあまり出ることはなかったのだが、今日に限って受話器を取ってしまったのは、虫の知らせかハルヒが垂涎して喜びそうな第六感の目覚めか。
「はい」
ものの数分で応対もおざなりな通話を終え、散らかった卓の上を見ながら俺は内容を反芻した。
古泉が体育の授業のとき、何をとち狂ったかは知らんが支えも忘れてグラウンドの真ん中でお倒れになったそうだ。幸いなことに倒れた体の到達地点に石やとがった障害物はなく、膝を打った程度の打撲や擦り傷が関の山らしい。
意識ははっきりしているから直接病院へ搬送するまでもないが、発熱の様相だとか何だかで、つまり今の一方的な通話を要約すると、不祥事に関してのバッシングが他の追随を許さない教育機関が何か問題を起こす前に迎えに来てくれと頼み込んだとのことである。熱が出たのなら、少しは休ませてやれば良いものをと思うのだが、さっそくゆとり教育に危機感を抱いていらっしゃる学校側にも生徒に悠長な顔を見せていられない理由があるのだろう。
俺も高校のときは保健室の使用時間が決められていたし。
ところで、と俺は考える。古泉の中学をちゃんと知っているのかと問われれば、実に曖昧で苦笑いのまま首を傾げる他ない。一番よく使う移動手段は愛車のベスパだが、熱が出ている古泉を後ろへ乗せて知りもしない道を走るのは大変危険だ。森さんは相も変わらず出張なので車は恐らく駐車場に置かれているはずだが、道云々以前に、車に触ったのが二年前車校で試験を受けて以来という何とも心もとない有り様なので却下。仕方ないのでタクシーに頼ることとした。
さらばバイトで貯えた資金よ。後で森さんに請求しよう。
「過労からくる風邪です」
学校に行った俺がまず最初に受けた洗礼が、教師陣による疑いの眼差しの数々であった。生憎ながら俺は童顔ではないので、必要以上の追尋は免れたが、逆に 「お若い保護者様ですね」 と言われたときには肩を落として泣きたくなった。
あの、古泉と俺のどこに血の繋がりを感じるのでしょうか。
とにもかくにも表にタクシーを待たせたままにしているので、早いところ家に帰っちまいたい俺に保険医が告げたのが以上である。
「はあ、」
過労、ね。
中学で過労って、規則正しい生活をしているように見えて、実は寝不足たたる荒んだ生活をしているのだろうか。いちいち中学生に見えない大人びた古泉ならば、想像に難くない。
差し出されたパイプ椅子に座って気のない返事をする俺の横で、聞いてるのか聞いてないのか、古泉はぼんやりした視線を天井へ向けている。今まで、汗をかこうが寒かろうが顔色の変わったところを見たことがない俺でもわかるくらい、顔が赤い。額を触ろうとしたら顔を背かれてしまった。
可愛くねぇ!
「新しい学校で緊張でもしたんでしょうかねぇ」
「はあ、」
こいつがそんな繊細なタマか、とは言えない。断言できるほど俺は古泉に注視をくれてやっていないのだから。
「古泉、大丈夫か?」
「お気になさらず」
霸気のない声で呟き、ベッドから体を起こした古泉は、体操服のままだった。病人相手に半ズボン似合わないなと揚げ足を取るわけにもいかず、クラスの心優しき誰かが持ってきてくれたのであろう、鞄を抱える。
「着替えるか?ああもういいや、面倒臭い」
「ここまでどうやって…?」
「タクシーだ。いいから古泉、荷物持て。さっさと靴履いて背中に乗れ」
「は…?」
制服を詰めた鞄をベッドの淵に腰かける古泉に押しやり、膝裏に手を添えて立ち上がる。俺の強行策に古泉は弱々しいながらも反抗しているし、保険医が非難がましい目で見ているが、熱でふらつく足元が危険な中学生の後ろをのんべんだらりと歩けるほど、俺は気が長くない。例えその中学生が俺と同じくらいでかくて可愛げがなくても、だ。
「お大事に」
戸口へ向かう俺に向ける保険医の目は、まだ何か物言いたげである。一緒に住まう場所がひどい環境でなくとも、便宜上ですら下の名前で呼ばない程度に俺たちが余所余所しいことが、気にかかるのかもしれない。誰だってそんな家で休まるなんて思わないだろう。
わかってるさ、そんなこと。俺は最低でも、同居人として古泉を気にかけてやらなければならなかったんだ。いくら大人びていて背がでかくても、こいつは俺より十も年下で、まだまだ家族の庇護が必要な未成年なのだから。
自分で歩けるのに、と往生際悪く寝言のように抑揚なく呟く古泉の体は、背中越しでもわかるほど熱かった。俺の顔にかかる古泉の前髪までもが熱を持っているみたいに生温い。
病院へ連れていくべきだろうか。一考して止めた。
古泉はまともな受け応えもできそうにないコンディションの悪さで、そして俺は古泉の代弁をしてやれない。俺自身の荷物も財布の他は身ひとつで、診察券も保険証も家に忘れてしまった。冷静を装って実は慌てて家を出てきたらしい。
タクシーに乗せた古泉の顔色は最高潮に悪く、えずいた後で口に手を添えていた。そうだよなー、煙草とか、タクシーに染み付いた臭いってけっこうきついよなー、と背中を撫でるくらいしか俺にはできない。エチケット袋はないのか、ここは。俺の手に吐かれた日には堪ったもんじゃないぞ。
「そこまで我慢できないほどじゃありませんよ」
「無理はすんなよ。駄目だったら道端で吐いていいからな」
「は、い」
きっと視覚的に優しくない光景になることうけあいだが、俺の手やタクシーでげろげろやられるよりはだいぶマシだ。ここは妥協して道端を拝借しよう。
家に着いたら支えていた俺を突き放すような形で古泉はトイレに駆け込みやがった。道端で吐くほど理性は飛んじゃいないらしくて幸いこの上ないが、突き飛ばされた俺の立場はどうなるんだろう、と玄関でへたれこむ。しばらくしてからトイレを覗き込んだら、奴は便座にすがるようにしてうつ向いていた。
「…寝るなら、汗かくからパジャマに着替えろ」
「すみません…もうちょっとだけ、」
水が流れる音を再び耳にしながら、古泉の部屋へ入る。
さすが男盛りの部屋だとどこか納得できるほど、古泉の部屋はけっこうな荒れ果てぶりだ。完璧主義に見えてこんな欠点があるなんて、なかなか可愛げがあるじゃないか。
しかし足の踏み場もないほど部屋を散らかしているのは学校からのお知らせとかではなく、何かの機密書類みたいな様相を呈している。悪いと思ったが、一枚手に取って一瞥する。
かみひと…かみびと?それともしんじんって読むのか?
どっちにしろ、俺の理解は遠く及ばないようだ。
適当に散らかっている書類をまとめて脇にやり、ベッドの上で脱ぎ捨てられている寝間着を掻き集め、再三トイレへ向かう。古泉はまだ便器に顔を突っ込んで沈黙していらっしゃった。
「古泉ー、パジャマ着替えられるか?」
「うぅ…大丈夫です」
駄目っぽい。
体操服ならそのまま寝入って構わないだろうが、湿っぽいそれは若干汗を吸ったらしく、やはり着替えた方がよろしいと判断した。俺は足腰の立たない古泉を洗面所まで引っ張り、脱がせた体操服を洗濯機に放り投げ(気分的には盛り下がりもいいところだった)、古泉の背中にパジャマをかける。古泉は蛇口で口をすすいで何をするでもなくぼーっとしているので、相当熱が高いに違いない。ずるずる部屋へ引きずってゆく俺の耳朶に、古泉の 「すみません」 が届いた。
「あやまんな、ばーか」
寧ろ、古泉の不調に気付けなかった自分が腹立たしい。
「熱は」
「学校では38度前後でした…」
「高いな。何か食えそうか?ご要望にはできるだけ応えてやる」
「林檎は風邪の定番ですよね」
「…食いたいのか?」
古泉は爽やかかつ弱々しげに微笑んだ。あーそうかい、からかっただけかよ。
「薬と病人食買ってくる」
「いえ、そこまでは…水を一杯いただければ」
古泉は眠そうに瞼を動かした。
春雨という四月に降る雨は、暖かくなりかけた空気を一気に冷やして、体調管理のバランスを取り難くするそうだ。平然とした顔でいても、古泉も転校やら親元を離れた生活やらでそれなりに疲れていたかもしれない。
ようやく触れた古泉の額は、ひどく熱かった。
一ヶ月。
(結局押し切られる形で薬とゼリーを差し出された。手ずから食べさせるのはさすがにお互い嫌だったらしく、慎んで辞退を申し出たときの彼は安堵に満ちた顔をしていた。けれど、熱が背中に回って痛いことに気がいったのか、彼は咀嚼を促すようにゆっくりと背中を撫で続けてくれた。書類報告の通り、年の離れた妹がいるせいか年下には甘く、甲斐甲斐しくどこまでも優しい彼の手付きに、散らかった彼女や彼に関する書類を見られたんじゃないかとひやひやしながらも、僕は、うっかり、泣きそう に な って いた )
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(080420)