俺が奴の気に食わない何かをしでかした覚えはないのだが、俺が話しかけると僅かにしかめる顔は決して友好関係を築こうとするような奴の顔に似つかわしくない。どうやら俺は知らない内に古泉に嫌われたみたいだ。







Good bye,my majesty!








休日。
珍しくバイトもなく、家で課題を片付けようかと読みもしない資料を意味もなく広げている俺がのびをして椅子から落ちかけていたとき、控え目なノックで俺は机に身を戻した。


「はい」
「ちょっと、いいですか?」


部屋の戸をほんの少しだけ開けて、中を窺うようにして俺を見たのは、森さんだった。
それはもう、びびった。昨夜トイレに行ったときに見た玄関のたたきには靴などなかったし、それでなくとも森さんが俺に接触しようなんてことはそうない。どうも必要以上に話しかけたがらないきらいのある彼女に気を遣って、俺もあまり話したりはしなかったのだし。今まで構われたがりの妹がいた上に親元を長い間離れることなんてなかった俺にとって、少し寂しい気もしたけれど。


「おかえりなさい。いつ帰ってきたんですか?」
「今朝早くに。また出なきゃいけないんですけどね」


よくよく見れば苦笑いする森さんはいつものスーツを着て佇んでいる。どう考えても睡眠時間の足らないような多忙極まるスケジュールを組んでいるようだが、その顔色は白くとも病的な雰囲気は全くなく、隈も疲れも見えない。薄化粧の人工的な臭いが鼻を突き、くしゃみが出そうになった。


「それで、あなたに頼みがあって」
「頼み、ですか」
「ええ。まだ慣れてないみたいだから、古泉に町を案内してあげて欲しいんです」
「…は、」
「本当は私がついててやりたいんですけど、急な出張でまた家を空ける必要ができて…」
「町を案内ったって…」


頭の中にある暦で、古泉がここに住み始めた日から今日までを数字に換算すると、逸三週間も経っていることになった。まだ授業がないとはいえ、先日古泉は出不精でないことが判明し、てっきり勝手に自分で町を散策したとばかり思っていたのだが、それにしたって単身で知らない土地に越してきたのなら主要な場所は把握するものじゃないのか、普通は。
森さんは苦笑いを解かぬまま、ねぇ古泉、と後ろに声をかける。薄暗がりで見えなかったが、森さんの背後にラフな格好の古泉が、またまた苦笑いを顔に張り付けて控えていた。


「無理は言いません。地元にお詳しい方に穴場なんて紹介していただけたら、僕としても転校した先で、話題に困らなくていいと思ったのですが…、僕の単なる我が儘です。そちらに事情があるというのなら重ねて無理にとは言いませんよ」


古泉は目を細めて俺の前にある資料を射抜いた。
古泉のいる場所からは白紙に近いルーズリーフが見えるとは思えないが、どうせ進行は芳しくないのだろうと言われているようで、図星を突かれて恥ずかしいやら逆恨みたいやらとにかく胸中複雑な気分に俺は渋面を取り繕うだけは抜からなかった。
かくしてダブル苦笑い光線を一身に受ける身となった俺は居た堪れないが故に、森さんを見て古泉を見て相変わらず進まない課題を見て、かくん、と頷いた。俺自身の名誉のために明言しておくが、決して俺の返答を待つ二人の無言に威圧されたからではない。
断じて。
というわけで、ささやかながらも居心地の良かった部屋と所変わって、直射日光が照り付け、アスファルトの白線の照り返しが眩しい屋外。
蒸し風呂とまでは行かないが、染み込むような柔らかな太陽の光にとろとろ眠気を誘われ、じっとしていると耳の裏や首筋が目眩のする熱さに見舞われる雑踏の中を、何が悲しくて男の古泉と立っていなければならん状況に追い込まれているんだろうな、俺は。所在無さげに突っ立っている、顔だけはよろしい男が隣にいるせいで、行く人来る人の視線(特に女性の)が痛い。腹立たしさ甚だしいと言ったらないね!


「あー…、とりあえずどっか、行きたいところとかないのか」
「お任せします」
「お任せしますってお前…」


本屋とか、ゲーセンとか、お前のリクエストがないとどうにも動けんだろうが。穴場だか墓場だか知らんが、案内を頼んだのはお前なんだぞ。


「本当に、そういったのはないんです。案内をお願いしておいて何ですが、何分、考えもなしに申し出てしまったので」
「何だそりゃ」


ぼさっとしている俺たちを邪魔そうに避けて改札を抜ける人間、入る人間、その様相は様々だ。まだ昼前と言えど、駅前ロータリーは休日を友人恋人その他と共に過ごす人でやや混雑気味である。
この間は本屋に立ち寄ったらしい、良くも悪くも隣で人の視線を集める無表情な年下の男を盗み見て、ふむと行き先を考え込んでみる。
しかしこの男、どうにも俺や谷口の馬鹿が好むような週刊誌やら単行本なんかの類を読むイメージが沸かない。中学生のくせに老獪を得たが如き雰囲気のせいで、いっそ哲学集でも読んでいればまだ噛み合わせもあるというものだが、それは至って偏見的なので思うに留めておく。そう、相手は中学生。小生意気極まりなかった時分だった俺の場合は野球観戦とかには全く興味を示さなくなり、父親を何とも寂しがらせたが、すかした顔をしていても古泉は俺と違うかもしれない。


「お前、漫画とか読むのか?」
「はい。週刊誌なんかはコンビニで立ち読みしていたときもありました。友情・努力・勝利のお約束は少年漫画に不可欠ですよね。今はその傾向もどうかは知りませんが」
「ああ、そうかい」


自分から話題を振ったくせに、投げ遣りな返答になってしまった俺を、一体誰が責められよう。普通なら好きな漫画のあれやこれやについて花を咲かせるべき話題のはずが、何を間違えてこんな評論家よろしく堅苦しい意見が返ってくると思うんだよ。予想できた奴はここに来い。そしてその脳内メカニズムをよろしくない俺の頭でもわかるように説明しろ。
ここで俺は古泉との会話の二の足を踏んだ。漫画が駄目なら小説で、なんて浅はかな話題転換は賢くない。俺は同年代の奴らに比べたら少しは本を読む方だが、あくまでライトノベルが関の山、サークルどころか大学随一を誇る読書量の長門の爪先にも及ばない。長門に勧められたならハードカバーもそれなりに食旨は動くが、所詮その程度。下手に話題をすげかえて、ゲーテやニーチェやルソーの名前が出てこられては堪ったもんじゃない。
しかしこいつは空気が読めないのだろうか。それとも、俺が空気を読んで古泉の提供した話題に合わせなければならんのだろうか。


「まあいいさ。昼にはまだ早いが、飯でも食いに行くか?何が食いたいかぐらいの選択はお前さんにもできるだろ」


俺の言葉に古泉は逡巡し、視線を巡らせ、呟いた。


「叶うなら、ファーストフードがいいです」


そのがたいの良さは駄目過ぎる食に反比例するのか、ちくしょうめ。
しかし、何だかんだ言って選択権を古泉に委ねたのは他でもない俺であるわけで、仕方なく俺は目に見える範囲にある店から選ぶようにとこれまた古泉に決定権を譲渡し、ポケットの中で震える携帯電話に気付いた。サブディスプレイに浮かぶ名前を見て顔をしかめる。深呼吸を繰り返して幾許、着信拒否を押したい気持ちでいっぱいだが、そこは抑えて通話ボタンをぽちっと。


「…あー、もしもし?」
『出るのが遅すぎる!あたしの時間をなんだと思ってんのよ!』


知るか。
電話口でがなる声に俺はうんざりした。電話に応対する決意を早くも覆してくれそうな金切り声で怒鳴り散らされるこっちの身にもなってくれハルヒ。


「何の用だ?」
『アンタ今暇?暇でしょ。暇じゃないわけないわよね。荷物持ちに任命してあげるから、ちょっと付き合いなさいよ』


どこの理不尽星からきた理不尽王が君臨したんだ。人の都合を全く介さない無茶苦茶で矢継ぎ早な要求に、こごった人いきれだけのせいではない頭痛で俺は頭を抱えたくなった。古泉は僅かに遠巻きから俺を見ている。


「悪いがハルヒ、今日は先約があるんでな、またの機会、俺が本当に暇なときを狙って約束を取り付けてくれ」
『アンタの予定なんて知ったことじゃないわよ!』
「ま、その通りだ」
『…みくるちゃんじゃないでしょうね』
「は?」
『出不精のアンタのことだからどうせ一人じゃないんでしょ?みくるちゃんは我がサークルの共有財産なんだからね!勝手に持ち出しちゃ駄目よ!』


失敬な、誰が出不精だ。
みくるちゃん、というのは、先日送別会で送り出された朝比奈さんのことである。可愛らしいお方で、その可憐な容姿を裏切らないうさぎさんっぷりだが、胸の大きいロリ顔ってだけでハルヒのオモチャとして三年間こきおろされた、何とも不運な人だった。今もあの気弱で絹を裂くような悲鳴を覚えている。相変わらず、朝比奈さんの人権は地よりも低いようだ(俺も人のことをとやかく言えるほど、あいつの中での地位は然程高くないが)。
同伴の相手が朝比奈さんだったら、さぞや良かっただろうに、しかし現実は自分と身長でタメを張る年下の男なのだから世知辛い。


「いや、前に話しただろう。中学生の、」
『ああ、訳有りの男の子だって言ってたわね。ふぅーん…アンタっていつまで経ってもお兄ちゃん気質よね。じゃあ今日はその子のためにいいお兄ちゃんやってあげなさい!』


通話、終わり。相手との通話が切れた音を背景に、俺は眉をひそめた。
あいつの中で訳有り中学生のイメージがどんなものかなど俺の知ったことじゃないが、なんとなく、少なくとも俺よりがたいの良い奴とは思っていないと思う。でなければ、いいお兄ちゃんをしてやれなんて言葉が出てくるはずがない。
携帯電話をポケットにしまい込んだ俺に古泉が声をかけた。


「今の方は彼女さんとかではないのですか?」
「彼女?」


よしてくれよ、あいつは彼女として隣に立つなら自慢して回りたいくらいに顔は極上だが、休日を一緒に過ごすには如何せん俺のスタミナと金がない。何より、宇宙人でも超能力者でも未来人でもないのを理由に、男女間の付き合いの申し出を悉く蹴ってのし返したあいつが、一般人代表と言っても問題ないほど面白みのない俺と付き合うなど潔しとしないのは明白だ。悪友親友としてならまだしも、恋人なんて甘やかな関係は、俺もあいつも望んじゃいないさ。


「でも、彼女は何か理由があってあなたへ連絡したのでしょう?僕が原因であなた方に迷惑はかけられません」
「…何をそんなに過敏になってるのかは知らないが、今日の俺の時間は、お前がこの町に早く馴染むようにとの森さんのお達しで消費されるんだと決まっちまったんだ。お前が如何に嫌がろうと、今日は付き合ってもらうからな」


とりあえず飯だと俺は古泉を振り返った。
相変わらず疲れたような苦笑いを繕った古泉の、数瞬前の顔によけいなお世話だと渋面が浮かんでいたのを見て、いいお兄ちゃんになれるのは当分先だと俺は無駄に青い空を仰いだ。







三週間。
(今日は書類上で把持した彼の経歴や性格と、若干の差異があることが見受けられた。部屋は森さんの名義で借りていることを負い目に感じているのか、同年代の人間が暮らすそれよりも綺麗で、面倒事を好かない気性にも関わらず、まめに掃除をしているようだ。しかし、彼の機微が一体どのように彼の心身へ作用しているのか、心底知りたい今日この頃である。今日も今日とて、その鋭敏さと愚鈍さの両方を器用にも披露している。彼女が素直になれない性格の上で憎からず思っていることがわかるのなら、何故その気持ちを恋愛感情だと気付かないのだろう。傍目にはあんなにわかり易いというのに、自分にそういった好意が向けられることはないとどこかで考えているのだろうか。彼女の好意や僕たちの事情を察してくれるのなら、まだやりようがあるというものを。ともあれ、本日監察のために僕が彼に頼んだ市内探索が、僕の本意ではなかったことが薄々気付かれた模様。それでも僕か森さんかの面目を潰さないことに日頃慣れない気を回したらしい彼は、家に帰ると幾分表情を柔らかくした気がする。そういえば、三週間ともに同じ家に住んでおいて、彼の笑った顔をまだ見たことがない。)








next 04>>




(080413)