運命の日という奴があるとするのなら、正しくその日がそうであろう。全くもって古めかしい言い回しそのものであるが、小説でもあまり見かけなくなったそれが俺はそこまで嫌いではない。







Good bye,my majesty!








その日は、夜の帳もたけなわである頃に、ようやく飲み屋から帰ってこられた。サークルの送別会に参加を義務付けたあの騒がしい彼女を恨みたい気分であったが、卒業していくのが、サークルを中継でもしなければ会話はおろか遠目から姿を見るのが関の山であったろう麗しのマドンナだった時点で俺に否やはなかった。一年後には自分もそうなるのだという自覚はどうしたって湧くはずもなく、酒はあまり強くないのにアルコールに身を委ねてほろ酔い気分で帰路に立つ俺は、どう見てもただお祭り騒ぎに便乗したという情けない有り体でしかない出で立ちで、どこか滑稽だった。酒で緩んだのか、日頃から決して涙腺の強くないひとつ上の彼女が鼻をすすり始めたときに気の利いた一言も言えなかったことのひとつが、ただただ悔まれる。それだけ。家に帰ったら何をするでもなく真っ先に床に就く。それだけのはずだった。
おかしいと思った。
俺は自宅の扉を前にして、ドアノブに手をかけた格好で固まっていた。扉が開かない。
俺のような一学生には勿体のないことに、大学に入ってから俺は駅に比較的近く立地条件の上から考えるとそう安くない賃貸住宅地に住まわせてもらっている。生憎一人ではなく年上の親戚筋に当たる女性と、ではあるけれど。男なら一度は夢見るシチュエーションだが、俺は当初彼女に見覚えがなく(うら若き女性と、という社会的には若干問題のあるルームシェアを承諾した親には、ある程度任せられる確証があったようだけれど)、何より、どこか冷たい笑顔をその人の印象として強く意識してしまっているからだろうか、その人が仕事柄出張に多く行くことも相俟って、共に住み始めて直四年になるというのに、未だに他人行儀な生活をしている。
何が言いたいかというと、つまりこの家の鍵を持っている人間は俺と彼女の二人ということで、開錠するつもりで鍵を回した俺はその実施錠してしまったということで。もう一度鍵を回して扉を開ければ、彼女のものらしき見慣れぬパンプスと、全く見覚えも心当たりもない男物の靴が目に入った。
彼氏でも連れてきたのだろうか、もしかして外泊した方が良いのだろうかと邪推していたところに、奥からひょっこり彼女が顔を覗かせた。髪を左右に分け、ふたつに括る彼女は初めて会ったときからあまり変わっていないような気がする。


「お帰りなさい。遅かったですね」
「サークルでちょっと飲み会がありまして」


彼女は一瞬表情を削ぎ落とした出来損ないの能面のような顔になったが、また柔らかく笑んだ。この瞬間が、俺はどうにも苦手なのである。


「もしかして眠いかしら。会わせたい人がいるのですけれど」
「そうなんですか?連絡をくれれば早く帰ってきたのに」
「いいの。機嫌が悪くなっちゃうでしょうから」


それは俺の機嫌が、ということなのだろうか。別に飲み会なんか用事を理由に中途退場したって構わない。若干一名ほどへそを曲げそうな奴はいるが、理屈と弁論で負けるつもりはないがね。
そう言うと彼女―森さんは笑って場を濁し、リビングで待ってますと擦りガラスの扉の向こうへと引っ込んでしまわれた。
会わせたい人、というのは、たたきにあったあの靴の持ち主でまず間違いないだろう。荷物を部屋に置き、顔を洗いながらまだ見もせぬ訪人を想像する。前述通り、俺はあまり森さんと親交がなく、転々と各所に出張させる(らしい)彼女の勤め先も、会話の糸口として話題に上ったこともないので、初めてとも言える彼女を象るその片鱗であるその客人に、僅少なりとも興味があったのである。


「はじめまして。古泉一樹です」


かくして、その男は、学生服に身を包んでいた。
落ち着きのある、すっかり変声期を過ごしたらしい声のわりにずいぶんとあどけない顔の男が、俺と差し向かってテーブルの向こうに座っている。礼儀正しく正座なんかしている奴、古泉と言ったか、それに対して俺はさっそく胡坐をかいて古泉を見ては、何となくこれから森さんか古泉の口ずから出てくるであろう紹介なり何なりに嫌気を感じていた。
古泉は何というか一見、未来のモデルなんて冗談は通じるほどの、美形揃いと名高いサークルの中でも飽くまで一般的な顔のおかげで肩身の狭い思いをしている俺に追い討ちをかけるような顔の造詣に秀でた、そんな奴だった。


「彼、今年で中学三年生に上がるんですって」


ちゅうがくせい。かつて自分が通ってきた名で、今や既に未知と化した年代である。さぞや同級生にも人気があるのだろうと俺は無表情な古泉を見た。
目線はやや俺の方が高いが、中学生にしては古泉の身長は高い方だろう。俺もそこまで背が低いわけではないけれど、この分では数年の間に追い抜かされてしまうのではないだろうか。改めて認識して、少し気分が沈んだ。


「それで森さん。どうしてまた俺に会わせようなんて思ったんですか?」


というよりも、明らかに俺より年上の森さんが、このような年齢の人間と交流を持てたきっかけの方が知りたかったのだが、森さんの笑顔が恐ろしく見えたが故に口を噤むとする。


「彼ね、本当は少し遠いところに家があるんですけど、そっちの方でごたごたがあって今家にいられないの。高校もこっちに受けにくるって言うから、ほとぼりが冷めるまでうちで預かるよう頼まれたんです。一応保護者の名義は私の名前ですが、私は出張であまり家にいられないから、代わりにあなたがいると安心だと思うのよ。ね?」


いきなり口火を切られた話の内容の真偽はさておき(現代版お家騒動ってやつだろうか。冗談じゃない!)、彼女に同意を求められて気づいた。これは最早完結された話だ。森さんの中では、古泉がこの家を仮宿にすることにもう判子が押されている。そして大変不本意だが、俺が森さんの留守の間(それってほぼ毎日ではないか!)に古泉の面倒を見なければならないことが確定してしまっているのだ。顔色を窺った先の森さんの無言が怖い。
俺はほんの意趣返しのつもりで訊いた。


「森さんっていくつですか?」


森さんは人差し指を真っ直ぐ天井に向けて伸ばし、口元に添えて笑った。


「禁則事項です」


いろんな意味で、今日ほどこの人を恐ろしいと思った日はない。







始まりの日。
(彼があこがれている先輩のそれと同じ仕草をする森さんを見て、僕は呆れた。そのまま話を無理やり通したって、彼は性格上断ることはしないだろう。こちとら(表面上)行くあてのない中学生という身の上で、彼は見たところ冷血漢というわけではないようなので、結果的に彼は渋々だろうと首を縦に振るだろうに、相変わらず森さんはひどい人だ。)








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(080324)