きらいきらいきらい、全部きらい。
もう、
昨日みた夢 08
「行かなくて、いいのかよ。バイトなんだろ?」
表情を改めて彼は言った。自嘲的な響きが多分に含有されている。どちらにしても、彼にそぐわない雰囲気に、感じる違和が膨張して肺を圧迫したかのように、僕は胸を詰まらせた。
僕は携帯電話の着信通知を、どんな方法であれ彼に教えていない。僕が個人的に連絡をとっている人間がいないとも教えていない。なのに、なぜ彼は閉鎖空間が発生したと思った、否、わかったのだろう。
固まったままの僕に彼は小さく佇まいを直し、笑った。しかし顔色はとても芳しくない。
「俺の体調を気遣うくらいなら、早く出動要請に応えてやれよ。それとも、手っ取り早く俺が行って潰してこようか」
「なに、を…」
「神人くらい、閉鎖空間くらい俺が消してやるって言ったんだ。お前も来るか?」
「でも、あそこに行くには、」
逐一移動しなければならないのに。
彼は素早く僕の鞄を引ったくって、ぽいと空中に投げ打った。あまりの傍若無人な振る舞いに対して僕が彼に何かを言う前に、鞄はその重力に従い、ゆっくり回転して(潰れたり折れたりする心配がいらないものしか入っていないというのが救いだ)、地面にぶつかる。目の錯覚だろうか。打たれた地面の表面が、まるで投石された池のように僅かな波紋を描くように揺れて見えた。と、僕がことの真偽を確かめようともう一度目を凝らす内に、やはり紛れもない現実でたゆたっていた地面が沈み、鞄をがぼりと飲み込んだ。
僕の鞄の行方を彼に聞くより早く、彼は僕の制服の袖を引き、引っ張る。堪らずふらつく僕をまだ引き続け、彼はうねうね真円に揺る地面へ沈んだ。
「悪いな。手荒になって」
袖から指を放して手短に謝る彼の背景は、まるでスポイトで色を抜いて、明暗だけをはっきりさせたような街並みが広がっていた。程度の差はあれ、彼は僕がやったのと似たような方法を採って僕をモノトーンの世界に招致したのだ。見慣れた景色が広がっているのに、滑稽にも僕はこの状況にいたく驚いているのだが、その景色の中で、あれもしっかりと暴利を奮っているのと、仲間が僕のいないままに、縦に横に袈裟に飛び回っているのを見て、僕は申し訳なさで唇を噛んだ。
彼はゆっくりとした足取りでそちらへ体を向けた。色味の一切ないこの世界だからこそわかるが、彼の肌は以前見たよりも色がない。
今朝のあのグロテスクなシーンが映画のヒトコマのように瞼に映る。
「や、止めて下さい、止めて下さい!何をするつもりですか!」
「あれを消す」
彼は僕を見ずに、ただひたすら強く真っ直ぐに物を壊すだけしかしない碧の巨人を見ている。彼女の機嫌はどうやらあまり良くないらしい。それもそうであろう。長門さんに先を越され、もう誰に抜け駆けされることなく彼を慮ってやるのは自分だと意気込んだ矢先に、性差という理不尽な壁のおかげで、彼を僕へ預けるなんて不愉快で不本意な状況になってしまったのだ。口惜しいことこの上ないだろう。
彼がどう神人をとるのか知らないが、またぞろ縦からも横からもブレスにかけられるような映像は精神衛生上よろしくない。僕は彼の腕を必死の思いで掴んだ。
「止めて下さい。僕たちに任せて、あなたはさがって」
「さがって何しろって?俺が鍵だから怪我されると困るからか?そんな心配はいらん」
「とにかく離れて」
「お前ら能力者に危害は加えない」
僕の言葉を遮り、彼は神人へ右手を差し出し、ぐっと握り込む。やにわにざくろが弾ぜたような音を立て、巨人が爆散した。さらさらした青白い液体が、飛び散った神人の体から尾を引き、霧のように消えた。それは筆舌に尽し難い幻想的な光景ではあるが、僕は彼の傷付いて悲しそうな横顔に、先刻彼の邪魔をしようとしたことを謝らなければならないような気がしていた。
彼の言を真実であると証明するように僕の同志はゆらゆら宙空を暫く漂っていたが、そのうち彼らもそれぞれどこかへ飛んでいってしまった。
「…あいつらに俺の姿は見えていない。俺があの化け物に何かしたって報告は、お前ら機関の方に行かない」
「…何故、このようなことを」
このようなことをするくらいなら、彼女から直接異能力を取り去ってしまえば良いのに。
「それじゃあ朝比奈さんも長門もここにいる理由がなくなる。そうしたら朝比奈さんがいる未来に齟語が生じ、情報統合思念体は長門の有機連結を解除…平たく言うと長門の存在を消す。長門はハルヒから流れ出す情報フレアの解析が役目だからな」
俺はこれでもけっこうお前たちと騒ぐのは嫌いじゃない。
彼がそう言って目を細めた様は、今まで見てきたどの眼よりも喜色を孕んでいた。
**
お前は知らないだろう。
俺がそう言うと古泉はゆっくり瞬きをして、目を左右へ流した。恐らく、今までの会話の中から俺の言葉が指したものを辿っているのだろうが、生憎と俺はそこまで相手を考慮して話を進めるほど気遣いのなった人間じゃない(そもそも人間の中にカテゴライズされるような肩書きではない)。飽くまで自分本位の勝手な語り口で言わせてもらう。なに、独り言ととってくれて構わないさ。その方が俺としちゃ助かる。
世界が灰色から色を取り戻して、しかし時間が遅い故か藍を重ねたような黒に色が変わっただけで受ける寂しげな印象は何ひとつ変化せず、ちらつく遠くの光源を眺めながら俺は古泉と話している。余談だが、閉鎖空間に入る皮切りを作った古泉の鞄はちゃんと持ち主に返したぞ。
「お前が感付いた通り、俺は俗に言う神とやらだ。ただし、お前らにとっての現実、四年前から閉鎖空間を始めとする超常現象が平気で横行する、この現実を創りたまいし創造主がハルヒだってんなら、俺は別の呼称に変わる」
「え、」
「未来人に宇宙人に超能力者…、あいつの頭ん中は混沌としてばかりいるから正直覗きたくないが、あいつは後どういう隠れたプロフィールをお望みだった?」
成績上位者のこいつのことだ、さぞや暗記も得意なんだろうな。いくらかハルヒの破天荒能力を語るに於いて、何度か話題にも昇った。さあ後は誰がいない?
「…仮にあなたが神だとして、僕たちが好き勝手に涼宮さんを神と支持したことについて、何かしら思うことがおありでは?」
古泉が窺うように探るように尋ねた。話をそらしやがったな。
「お前ら機関が持ち上げる、ハルヒイコール神説にゃ特に思うこともない。そういった説も他の勢力で支持されているところもあるしな。この世界がそうでも、俺がいた場所には神なんて抽象的な存在は呼び名もなかったから、はっきり言って宗教は俺にとって人間の思考方向を見るわかりやすいテキストだった」
「あなたは一体どこから…」
それを言葉にするのは難く、俺は言葉に窮した。この次元が全てで、それは所詮視覚から脳に伝わる微細な情報の上でしか成り立たないことに気付かず生きていられる人間に、俺が今までいた、息の詰まるようなあそこの概念を口伝するのは些か骨の折れることだろう。
「お前、自分のいる次元と他の次元の違いを説明ができるか?」
「0次元は点、1次元は直線、2次元は平面、3次元は立体ですね。僕たちが生きているのは立体の世界…つまり3次元ですか。数学的に言えば、まだ別の次元が存在することを前提として、n次元と表すようですが」
話が通じた上に懇切丁寧な説明を頂けるとは思わなかった。だいたいこの説は数学と物理の併合理論だ。当然高校では履修範囲外の代物で、下手したら大学の物理的因子の講習で戯言程度に触れられるだけである。お前、実年齢をサバでも読んでいるのか?
とはいえ、回りくどい説明かよくわからない演説が好きな古泉にしては簡潔かつわかりやすい言葉に置き換えたものだ。
「点が集まって線になり、線が集まって平面になり、平面が重なって高さができる。じゃあ次の次元は何が集まってできていると思う?」
「次の次元…4次元ですか」
「ああ、4次元だ。気が付いたらいつの間にか俺がいた場所」
「立体が集まっても立体にしかなり得ませんからね…」
お手上げです、と古泉は肩をすくめた。いつも通りの胡乱な笑顔は流石だが、所作がぎこちない。頭のいいこいつのことだから、俺を警戒する態度をあからさまに見せるよりも、普段と変わらないように接して、敵意はともかく害意はないと示したいのだろう。
微笑の奥にある目が抜け目なく炯々と光るその様が、より一際俺を寂しくさせた。
なあ古泉。お前は知らないだろう。お前は、力を無意識に行使するハルヒを一時期疎ましがっていたようだから、有識の上で力を行使できない俺の気持ちなんか。稀でないほどのもどかしさに喉を掻きむしりたくなる衝動なんか。
俺はもう、疲れたんだ。
「…あそこはこの世界に限り、現在過去未来を一貫して鑑賞するのに、よくできた場所だ。時間の概念がないから自分の好きな時代を誰の視点からでも観れる」
「時間が集まった次元と来ましたか…」
いわば世界は長い長いフィルムだ。観たいところだけを切り取って映写機に詰め込めば、いつでも上映開始なのだ。
古泉は顎に手を添え、何かを考えている。知ろうと思えば不可能ではないが、どうせ俺と周りの相関図を書き換えているだけだろう。そういうところはまめだな。何気ない仕草ですら非の打ちつけようがない。この世は不公平だ。そして平等だ。
「今からあなたのお時間を少々、頂けますか」
俺は快諾した。
そう言うと思ったさ。
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(080229)