―Bonjour!やあ、悲しき道化!
 俺はそんなじゃない。
―ではなんて呼ぼうか。それではこの世界の多くから縛られ、多くを縛る唯一の名前で呼ぼうか。
 俺はそんな大層な呼び名なんて持ち合わせちゃいない。
―でも人々は君を呼ぶじゃない。君を**と呼ぶじゃない。




昨日みた夢 07




 結局、バイトがあるからと出た部室の扉を刹那後にくぐり、また戻ってきた僕を、彼女は笑って向かえてくれた。
 古泉くんはSOS団の副団長だもの!あなたのポストはちゃんとあるんだから、いつでも戻ってきてちょうだい!笑いながらそう言ってくれた彼女の言葉は、多少居心地の悪さやばつの悪さ(それが悪い意味でのプラセボ現象だと理解はしているものの)を感じていた僕の心を幾分か、軽くしてくれる役割を果たしていた。
 彼は僕を見て何故か悲しげに顔を歪め、長門さんと二三言葉を交わし、椅子に寄りかかって目を閉じた。遠目から見ても気だるそうである。それも、病の気による倦怠感に見えるものだから、僕としても何だか心安らかでいられない。


「大丈夫ですか?」


 彼は薄く目を開け僕を視認すると、首の据わらない赤子のように、重力に飽かせてこてんと頭を寝かせた。


「お前、閉鎖……いや、バイトはどうした?」
「急遽あちらの都合により営業にならなくなってしまいましてね、今日に変更された僕のシフトも、今はがら空きですよ」


 彼は閉鎖空間へおとなうことを嫌う。それは自らだろうが僕たち能力者だろうが同じことである。僕は彼に少しでも気を軽く持ってもらいたかった。それでなくとも、彼の精神的な負担にはさせたくなかった。


「…珍しいな。そんなことあるのか」
「どうやら、すぐに消滅してしまったようなのです。理由は原因不明ですがね」


 声を落とし、息を潜め、喜々としてお茶を沸かす彼女に声が届かぬようにして憚った。
 いつもなら顔が近いと心底嫌そうな顔で僕の体を押し遣るけれど、彼はどこか心あらずな様子、嫌がる様すら露ほどにも見せない。それは何だか親睦が深まった(というより彼に気を許してもらえた)ような気がして僕にとっては嬉しいのだが、目が虚ろで他の物事を探るような仕草は人として褒められたことではもちろんなく、面白くない。僕の言葉に適当な相槌が返ってくる辺り、耳だけはこちらへ傾けてもらえているようだけど、会話はやはり面と向かってするべきだろう。往生際悪く傍観者スタンスを気取る彼には、好奇心を殺す気負いがあってもおかしくはないが。


「さぁ、団長様直々に煎れてあげたお茶なんだからね、味わって飲みなさい!」


 どう彼を相手取ろうか考えあぐね、持てあましていたとき、僥幸なことに彼女が両手でお盆を抱えて会話に割り入ってきた。豪快にお盆を机に滑らせた彼女は溢れ落ちた茶の飛沫にも頓着せず、気前良さげに湯呑を机上に叩きつけるようにして僕たちに提供する。香り高い緑がかった黄色の茶は、確か朝比奈さんが高かったのと苦笑いをしながら差し出したあれではないだろうか。気の長いとは言えない彼女が正しい煎れ方を読み、湯の温度を朝比奈さんの如く温度計で正確に測ったとは思えないが、天性的に何でもこなす彼女に限ってそれが不味いということはないであろう。


「有り難く、頂きます」


 彼女は満足気に頷いた。彼は漸くいつもの調子を取り戻したのか、変な味だったら容赦なくクレームつけてやるよと意地悪く笑い、彼女が置いた湯呑をためつ眇めつして、ゆっくり湯呑の端に口をつけた。長門さんは相変わらずというか、美味いとも不味いとも感じていないような無表情で湯呑を傾けている。


「ん、んまい」
「当ったり前よ!みくるちゃんがいつも煎れてくれてるのを見てたもの!」
「の割りには随分苦戦したようだがな。やかんの噴き溢れの始末はどうするんだ」
「苦戦なんて心外で無粋な言い方は止めてよねキョン!ちゃんとやったわよ!ただ、ちょっと派手に噴き溢れただけじゃない!」
「派手だろうが何だろうが構わんが、朝比奈さんの手を煩わせるようなことはすんなよ。ただでさえ、あの御仁はメイドなどという倒錯的な衣装を着ることに慣れるような、少し可哀想な道に迷ってらっしゃるからな。わざわざきた瞬間にここの掃除なんて哀れすぎて見ていられんぞ」
「何よアンタ、もしかしてメイド萌えじゃないの?ドジっ子とか猫耳とか眼鏡っ子とか?」
「俺に眼鏡属性はない。もっと言うと猫耳属性もない。というか論点をすげ替えるな」


 手厳しく彼は彼女を論破しようとしているようだが、日頃の彼の態度から、彼が朝比奈さんのあの姿格好に文句を言うつもりは毛頭ないことは一眸でわかる。分かりやすい彼の好みに失笑を禁じ得ず、そして、明朗快活な彼女のどこがお気に召さないのか、少し計り兼ねてそれを苦笑いに変える。


「にやにやするな気持ち悪い」
「これはこれは。心外ですね。僕はいつも笑顔を絶やさぬように努めているだけですよ。楽しい場には楽しげな表情が似合いでしょう」
「屁理屈だな」


 あなたと同じです。言ったら叩かれそうな言葉が意図せずして浮かび、それを口にすることなく飲み下す。不平不満の類を胸中に溜め込むのは慣れたものだ。
 彼は、まるで僕の思考を読み取ったかのようなタイミングで一瞬怪訝そうな顔を露にして、空になった湯呑を脇に避けた。彼女は給仕の仕事をやりきるつもりらしく、すかさず彼の湯呑に急須を向ける。ただ、その所作はしとやかとは言い難いが、どうやら、疲れ寝入った彼を労う気持ちが少なからずあるのだろう。


「なんだ、いつになく気が利くじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」
「何よ。みくるちゃんがいないのにあたしがお茶汲みしちゃいけないわけ?」
「そういうわけじゃないんだが…」


 と、ふと彼がしかめ面を柔くして、ありがとさんと言った。口調こそいつもの無愛想はたまた面倒臭そうなそれなのだが、目元を緩めて口角を僅かに上げた、いわゆる笑みに類する珍しい彼の柔らかな表情には流石に彼女も気付いたようである。いや、彼女には然程珍しくもないか(「わかればいいのよ。最初から素直に感謝しなさい!されてあげるから」 という憎まれ口は、彼女なりの照れ隠しに違いない)。それを必要としない長門さんを除いて彼の笑みに対して耐性がないのは僕だけかもしれない。彼は彼女への僕の腰の低さが気に入らないのか、僕の意見に対してはやや辛辣だ。
 結局、朝比奈さんがいないと花がなくつまらないという彼女らしい自分本位な理屈で今日は早々にお開きとなり(彼が彼女に釘を刺さなければ彼女は後始末をすっかり朝比奈さんへ譲渡していたであろう)、現在は朝比奈さんを抜いて四人の団体がぞろぞろと急勾配な街の景色を一望できる坂を下りているのである。彼女は黙々と前だけを見て歩く長門さんに構うことに飽いたのか、けれど彼の体調を慮ってか彼につっかかることもなく、唇を若干突き出して調子の良い鼻唄を歌っている。
 彼はまた、気分でも悪そうに歩いている。


「大丈夫ですか?顔色が優れませんよ?」
「…いや、大丈夫だ。病気とかそんなんじゃないからな」


 断言するというのは、彼がそれなりに何らかの根拠を持っているからだろうが、それにしても彼は辛そうだった。目を絞っては開き、どうしたら、だの、途方もない悩みのようなものを抱えている様子、顔色は夕日に染まっても白い。


「涼宮さん。彼の調子が芳しくないようです。僣越ながら僕が彼を家まで送っても?」
「え、じゃああたしが、」
「彼が途中で倒れても、男の僕ならば支えることくらいはできそうでしょう。女性の涼宮さんや長門さんに重労働の役を押し付けられませんよ」


 もっとも、長門さんが見た目通りの細腕ではないだろうことは容易に想像がつくけれど。その長門さんはというと、彼に何か言いたげな目を向けているが、僕に見られていると気付くと、ふいと顔をそらした。
 彼は、人体解剖を隅々まで見せ付けられたかのような一般人の顔をしている割りに、確固たる足取りで僕の先を歩く。
 そして目下彼女をとりなしてとりなして説得して、僕一人で彼を送り届ける確約を取り付けたにも関わらずに僕の意に介さず、彼女の機嫌は急降下である。仮に閉鎖空間が発生したとして、しかし神の鍵たる彼の不調が原因だとすれば、早く良くなって電話でも直接でも元気な声を聞かせてやれば良いのだ。後で断りを機関に入れようと携帯電話をポケットの上から撫でると、何というタイミングか、電話が震える。同時に、歩いていた彼が立ち止まった。


「…閉鎖空間で死んだ人間ってのは、死体はこっちに戻らずに向こうで消えるのか?」
「さあ。何分幸運なことに、僕はそのような状況に巡り遭わせたことがないものですからね」
「そういう話、聞いてないか?新川さんとか、森さんとかに」
「知ってどうするんです。僕だってあの閉鎖空間がなければただの高校生ですよ。消えた人間やその過去を僕たちのような一介の人間がおいそれと簡単に取り戻せるとでも?」


 その話を信じるのだとしたら、それはとんだ気違いだ。彼もこんな馬鹿げた夢物語をあほくさいと一蹴するものと思っていた。しかし、彼は言い淀んだ。視線をせわしなく左右へ振り回し、何かを言おうと試みて失敗する、その繰り返しをしていた。冗談で言ったつもりだったが、彼がここまで狼狽し、否定や批判のひとつも飛ばさない、その場にあるまじき光景に、僕は嫌な汗が指先で撫で広げられるような錯覚を覚えた。
 その夢物語の実現が、彼にとっては可能の範囲なのか。そんなの、どう贔屓めに見ても人間のできる所業ではない。そして僕は残念ながらそれらを可能にしてしまう存在の名を知っている。


「…まさかあなた、」


 かみさま、ですか。
 彼はとても残念そうにしていながら、諦めたように力なく微笑んだ。それが彼の人柄を考慮した上で似つかわしくない笑みだったものだから、僕は身の内の猜疑が確信に変わる残酷な様をじわりと感じる。


「そんなふうに呼ばれてたときも、確かにあったな」


 僕の保持して堅守していた世界が、脆く崩れ去る音が聞こえる。







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(080222)