「人間の脳は大脳新皮質を含めそのおよそ半分もが使用されない。それは神経系統の電気信号に限界があるのか、人間の精神が脳よりかかる負担に耐えられないからなのか、諸説は様々、それでいて詳細は不明」
「そういや、そうだな」
「あなたは今、脳を中心に体へ大幅な負担をかけすぎ。休養を摂るべき」
「…長門は死にたいとか、消えたいとか、考えたことあるか?」
「私たちヒューマノイド・インターフェースは人間と情報統合思念体との意思疎通の架け橋であって、有機生命体の持つ死や存在の消滅に対する概念を理解する必要はない」
「そうかい」
普通思春期の人間なら程度の差こそあれ、誰しもが抱える悩みなんだがな。俺も絶賛モラトリアム中であるし。
昨日みた夢 06
早朝に発生した閉鎖空間には正直ため息を禁じ得なかった。俺はまさに惰眠を貪っていた真っ最中で、いきなり突如として頭に昇った感覚には、上も下も右も左もわからなくなるほどで、飛び起きた拍子に体を支え損ねた俺が見事に頭から床へと敢えなく墜落したのが、今日の朝五時を回ろうとしていたところ。一体何の目覚ましサービスだ。
とりあえず上着だけを着込んで靴を履き、家人に見られないように計らいつつ家を出て、俺は閉鎖空間へと赴いた。いつもならちょっとも手間取らずに指先ひとつでほいほい閉鎖空間なんぞ消滅させることができるのだが、如何せん空間発生の予兆を感じるまでもなく寝過ごしてしまったという情けない諸事情により、能力者が空間へ入っていないかわからない故に自ら足を運ばなくてはならない状況が出来上がってしまったのである。古泉を視てわかったことなのだが、どうやらあの空間で作った傷は強制的に現実世界へテイクアウトのようだ。無人かどうかの確認もせずに掌でぺしゃんとやって能力者の存在そのものを丸ごと消してしまった日には、夢見が悪すぎておちおち二度寝にも就けん。夢枕に化けて出てこられても困る。だから俺が閉鎖空間に侵入を果たしてすぐに他の能力者ども、並びに古泉が入ってきたのには、空間の発生に気付いた時点で即座に潰してしまって良かったものか、多少複雑な気持ちがした。まさか本職の人間を差し置いて仕事を盗るわけにも行かず、結局閉鎖空間にいたのを不慮の事象と無理矢理古泉を納得させたが、古泉の書類報告を見るお偉方とやらが古泉と同じように納得するはずがない。寧ろ訝るだろう。俺は奴らが大事がる神に影響を与えることができる鍵とやららしいからな。それ以前に人間というカテゴリから外れているのだが、誰にも知られていない、いや、長門以外知られていないので、それは脇に置いておく。あまりに緩慢な奴らの作業に苛立って、手伝いの次元を越えて手出ししたのもこの際目を瞑って頂きたい。とにかく、何だか意気消沈気味だった古泉が神人狩りの最中に若干いきいきして見えたのには少し驚きだ。古泉、そんなバイトでもお前にとっちゃ生活上なきゃならん慣習になっているんだな。
以上の理由により、俺は何故か文芸部室で冒頭の長門から説教を受けている。いや、こいつが俺のクラスに訪れたこと自体が少々驚愕に値するのだが、何にせよハルヒが不在なのを見計らってきたに違いない。ただ戻ってきたときにハルヒに詰め寄られ(しかも谷口や国木田から情報を得た後のハルヒにだ)、問い詰められたら俺は苦しい言い訳を考えねばならん必要が…えぇい、しち面倒な。サボってしまおう。
「お前はいいのか」
「情報操作は得意」
「まさかお前、出席日数いじくってここで本を読みにくるなんてざらにあるってわけじゃ…」
「現在この国の教育機関で履修する科目は全て習得済み」
「…あ、そ」
便利なものだ。
長門は重そうな本を片手ひとつでいつもの席まで持ってきて、ぺらりぺらりと読み始めた。
「眠って」
「………」
「あなたの体は閉鎖空間を消滅させる古泉一樹の補助及び私のエラーの除去による負荷に耐え兼ねて睡眠を欲している。飽くまであなたの体は、この星で生きていくために従ずる創りになっている有機生命体。体が亡べばあなたをこの世界に繋ぎ止める鎖がなくなることを意味する。それはあなたも本意ではないはず」
「…何もしないな?快復の手助けなんか、しないな?」
「放課後、活動の終了までにあなたが目覚めない場合は、その命令は承諾できない」
「わかった。俺が起きないときは、そのときは目覚めさせるだけに留めてくれ」
長門は暫く眉を寄せて不服そうな顔をしていたが、やがてゆっくりと平素と同じく頭を僅かに傾けて、頷いた。
「あなたはこの世界に意味を作る人。涼宮ハルヒに限らず、あなたを必要とする人はいくらでもいる。もちろん、私も」
朝比奈さんの未来を守るため、長門の存在を消さないため、俺はハルヒの力を取り上げたりはしない。だから誰も俺を**してはくれない。
いい加減うんざりして俺は目を閉じた。
**
部室へ赴くと彼は机にへたれ込んで死んだように眠っていた。それは決して単なる直喩ではなく、呼吸に伴う背中の躍動も、安らかな寝息も聞こえない。静か過ぎるその眠りに、彼の生命活動が停止してしまったかのような錯覚を抱いて、僕は彼を揺すってみた。ゆらゆら首と頭が腕からずり落ちるくらいに動いたが、彼は身動ぎひとつどころか呻き声ひとつすらなかった。制服のジャケット越しに伝わる体温だけが僕を安心させる。
「彼はどうしたのですか?」
僕はこの部室にいた長門さんへ問いかける。彼がここまで深い眠りに就く理由がわからない。今朝のこともあるから午睡ならばまだわかるが、運動をして活性化した体や脳が簡単に眠りに落ちるとは思えない。
長門さんは相変わらず分厚い本から目を放し、感情の篭らない目で僕を見て、また本へ戻した。
「起こす必要はない」
「しかしそれでは涼宮さんがどのみち、」
「構わない。涼宮ハルヒには私から言う。…彼は休息が必要」
「…理由をお聞きしても?」
「それは彼が望まない」
「あなたが彼を庇護するのは」
「彼を庇護するのは私に限った話でないことをあなたも知っているはず」
図星を突かれた気分だ。
彼に何か障害が起きれば連動して彼女も精神的な面で不安定になる。彼の平穏を前提として今の規模の閉鎖空間が発生しているとみる意見だってあるのだ。現に彼が原因不明の意識消失で入院していた間の発生頻度といったらなかった。僕は見舞い時間のときだけは免除してもらったが、それでも僅か三日で発生した回数は両手を使わなければならないほどの数に昇る。あの状態が何ヵ月も続いたならば、彼が目覚めない内に僕はノイローゼで死んでしまっていたかもしれない。
それでなくとも、既に僕の身分は機関の人間というよりもSOS団の副団長の方に変わり身しつつあるのだ。その言を彼にどれほど信じてもらえたかは知らぬが、彼の体調不良を気遣うくらいには、僕も生易しくなっているつもりでいる。
「みんないるー?今日はみくるちゃん来れないから…ってキョン!こんなところにいたの!」
長門さんの責めているともとれる視線を受け、妙に気まずくなってしまった空気を払拭するような明るさを以って部室に入ってきた彼女は彼の眠る姿を見て、目を吊り上げた。
「彼、僕が来てからも寝ていたんですよ。どうかなさったのですか?」
「どうかしたもくそもないわ!有希に呼ばれて出ていったまま帰って来ないって聞いてから、ずっと授業に出てないんだから!」
「ちなみにいつ頃から?」
「二限からよ。保健室の休養届けも提出してないから、岡部に呼び出し食らうわね」
馬鹿を見るような目で彼を睥睨する彼女の言葉通りならば、彼は今日の授業をほとんど欠席したことになる。長門さんを盗み見ると、板張りの床を睨みつけるようにしていた。
「キョン!いい加減起きなさい!団長を差し置いて昼寝なんていい度胸ね!」
彼を椅子から張り倒さんばかりの荒々しさで彼の肩を掴んだ彼の手が、長門さんの小さな手に添えられ、その動きを止めた。彼女は長門さんを睨みつけ、何よと唸った。ヒステリックではないが、下手な気の弱い人間なら縮み上がってしまうような低い声だった。
「彼は疲れている。休ませた方がいい」
「…有希、もしかしてずっとキョンと一緒にここにいたの?」
「そう」
あ、と思った瞬間に、彼女の目が更に切れ上がった。恐らく彼の体調不良にいち早く気付いた長門さんへの嫉妬と、彼の体調不良に気付けなかった自分への憤慨だろう。
携帯電話が震える。
「うわっ、」
今までどんなに揺すられても起きなかった彼が、まさか携帯電話のバイブ如きで起きるわけがないが、彼は跳ね上がるようにして飛び起きた。文字通り、足がぴょんと跳ねたのだろう、机が大袈裟に揺れる音で向き合っていた二人が彼に気付いたようだ。
彼が起きたのなら、彼女をなだめる役目は既に自分の手にはない。バイトが入りましたのでお先に失礼しますとだけ告げ、まだ寝惚けているのか、焦点の合わない彼の正面に置いた荷物を抱え直した。そのとき、自失したように彼が 「やっちまった」 と呟いたのが聞こえたが、一体何のことやら。
部室を出たところで携帯電話が再び震えた。場所の指定だろうかと内容を読み下す。
閉鎖空間消滅
「……中止…?」
今日は規格外なことだらけのようだ。
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(080219)