お前は言ったな、古泉。我が部室たる文芸部が不可思議不可視な力に満ちている飽和状態だからこそ、団長様が描いた、ミミズがのたくっているようなエンブレムの不思議パワーの効力が発動されなかったのだと。だったら逆にこう考えられないか。その飽和状態とやらにするのに、俺も一役買っていてもおかしくないんじゃないかってな。
(多分にそういう可能性を含んでたってことさ。俺みたいな奴がいることに、お前らどころか、誰もがわからなかっただけ、知らなかっただけで)
昨日みた夢 04
罵倒なのか脅迫なのか曖昧な悪口を吐いた汚い口は、今は三角に開いて煌びやかな笑い声をあげて場を楽しげなものにしている。ただしそれはハルヒを中心にして半径30センチメートルの範囲のみに限る話である。朝比奈さんは昨日の俺が冒した失態が帳消しにされたことに安堵して下さったかのように悄然を滲ませた笑みを浮かべていらっしゃるし、長門は空気に色がついていようといつものあの無味乾燥とした無表情で、それで人を叩けば思い余って鼻から脳味噌でも吹き出るんじゃないかと危惧してもおかしくないほど厚みも重量もある本を、本当に一文一文ちゃんと頭に入ったのか疑いたくなる速さで読み進めているのだろう。
「でかしたわキョン!なるほどね、下っ端にしては良い仕事したじゃない。あたしってばてっきり…」
口を切りかけ、ハルヒは、何でもない!と笑った。不可抗力にして偶然の産物こそあれ、恐らく、俺と佐々木の逢い引き染みた邂逅を目撃したことは、ハルヒの中でもそれなりにモラルに反することなのだろう。それか、俺がハルヒの人格をそれで見損なうと思ったか。
「よし、来週の市内探索のついでに行きましょ!みくるちゃん甘いもの好きよね、喜びなさい!アイスもパフェもジェラートもキョンの奢りよ!」
「そこまでしてやる義理はない。そんなモン各自の自腹に決まってるだろ」
朝比奈さんにならば財布ごと差し出したところで俺の懐(というか精神)は痛みなど感じまい。勿論、他の外野は抜きな状況であったならきっと俺は昇天しても良いが、抜け駆けに敏感な我が団長様を出し抜くには並大抵の努力ではなし得ないだろう。
いざ、作戦Aと名付け、どうハルヒを市外(贅沢を言うとしたら県外が理想型である)まで遠ざけるか画策しようとパイプ椅子に沈み込むと、俺の思考に水を差すように古泉がやってきた。つくづくハルヒの擁護に回り尽す奴である。存在そのものがそれに近付きつつあるのではないかと猜疑に満ち満ちてきた頃、古泉が笑顔のままチェスの箱を抱えて俺の正面に座った。目は口ほどに物を言う。一戦やりましょう。待て、俺はまだ作戦のひとつすら立てられてないんだぞと口にするのはやはり憚られ、仏頂面で仕方なく応じる。古泉は白、俺は黒。
「古泉くん、朗報よ。キョンがこれ持ってきたの!」
ハルヒが、先刻俺が渡したクーポンを机に叩きつける。少し折れ曲がった様を直に見受け、ちょっぴり虚無感を湛えた何かが俺の胸に込み上げた。
「キョンも少しはSOS団の下っ端だって認識が出てきたと思わない?」
「ええ、流石は涼宮さんです」
ちくしょう、お前ら俺の人権を一瞬で消し炭にしやがったな。俺と主に佐々木の苦労をちっとは労え。そういう意思表示を込め、目の前にのこのこと進んできた古泉のナイトを狩る。古泉は顔色ひとつを変えない。その様相には手応えをいまいち感じない。つまらん。
「お前は少しくらい悔しいとか、そういうのを表に出した方が人間味が出て良いと思うぞ」
「しかしこればっかりは生まれ持った性格の問題でして…それに、僕も大分強くなった方なんですよ。ただ、あなたが甚だしく強いだけなんです」
性格はその大半が三歳前後に形成されるというが、どういう生活をしてそんなねじ曲がった性格になったのか、良ければハルヒに説明してやれ。ついでに、お前の隠された面白おかしいプロフィールも明かせば、ハルヒも暫くお前をいじくるだけになるやもしれんぞ。
「止めておきましょう。後が怖そうだ」
いつかと同じ台詞を宣い、古泉はルークを動かして俺のポーンを取った。…そこにルークを置くと後数手で俺の詰みなんだが。
いつの間にか長門が机の横に移動して、俺と古泉がやりあっていた盤上を、リノリウム溶液並の鈍い眼光を湛えた目で見つめている。ただチェス盤を写していただけの長門の瞳が、つや消しブラックに変化するのを俺は見た!しかし、長門には俺が古泉と興じた数多のゲームのルールを一通り教えた後である。長門が興味を示すには理由が足りないような気がするのだが。
「ユニーク」
「え、」
「どうかしましたか、長門さん?」
「あなたの駒を差す手には、意味を生み出す力がある」
「は?」
長門が黒の駒に触る。ぴと、と頭に指を乗せられた馬は、けれど危なげを見せずに盤上にて未だ鎮座している。
意味の有無が、ゲーム如きにあるとは思えない。単なる暇潰し、時間潰しである。俺は長門の言いたいことがよくわからなかった。古泉を伺い見ると、奴も若干口を薄く開けて長門を見ている。長門は駒から指を放し、俺を見た。
「気を付けて」
「なんだ、いつかの朝倉みたいな奴でもまた来んのか?」
「……………」
黙ったまま長門は手に持ったハードカバーを本棚のハードカバーと替え、指定席へと足を運んだ。代わりに古泉が何故か反応する。答える気がないのか、答える必要がないくらいすぐにわかるのか、長門の沈黙はいまいちわかり難いものだった。気を付けてと言われたってな、何にどう気を付けりゃいいのかを明言してくれでもしなければ気を付けようもないということを、長門はわかってくれているのだろうか。
まあいい。こちらはこちらで勝手に閉鎖空間を潰すだけだ。
「古泉、お前もう手はないのか?」
「あ、ではポーンをe8に」
最悪な手だ。
薄荷の渋味が今になって気になり始めた。
**
前述のくだりより、逸一週間が過ぎた。(何と比べるかは場合によりけりだが、この場合は、周りにいる普通の学生と同じである)ささやかで変わらない日々を、僕は時間の流れるままに過ごしている。
暫くはあのくそったれな空間は出てこねぇよ。
そう、彼の、自白によるところの勘とやらが現在今に於いてまでも僕の平穏を告げ続けているのである。しかし、僕の平穏が確保された証拠は未だ僕の目の前に提示されてはおらず、要はこの安寧がいつまで持続するのか全く以って不明なのだ。
不安に脅かされているのは何も僕だけではない。閉鎖空間で自らのストレスを消化するに留めていた神が、次にどう出るのか、機関はまるでわからないのである。神の機嫌について、恥ずかしながらエキスパートと言って自負していた過去も、今はとんだ自惚れと化しつつある。機関の上層部は、今やちょっとした恐慌状態だ。
神は僕らをもう必要としていないのだろうか。神の願いの一片である僕らを、最早無用の長物と思っているのだろうか。それはないと、僕は自答する。彼女は見た限りまだ超能力を始めとする不可思議な超常現象に直接関わってはいないし、超能力者や宇宙人や未来人と遊ぶという可愛らしい野望を諦めたわけではない。ならば彼女の一存で存在する僕らは、まだ彼女の望みから溢されてはいないのだ。
暫くはあのくそったれな空間は出てこねぇよ。
彼は、何故そう断言できたのだろう。何故、断言したのだろう。何を根拠に。何を確証に。
「…彼が素直に答えて下されば良いのですがね…」
誰に聞き咎められることのないように組んだ掌に額を当ててひっそり囁く。
彼に面と向かって聞いたところで、どうせはぐらかされてしまうのだ。勘だ、と僕が勘繰る前に答えたこと自体が、彼がそれ以上の追尋を望んでいないことの表れである。
僕は視線だけをそろそろと動かして、ぼんやりと教室を見回した。流石に就職や著名大学への進学を希望する生徒が多いだけあり、文系クラスより速いペースで進む授業を、わざと疎かにする輩はそうそういない。ノートに目を落とすと見飽きた自分の乱雑な字が散らかっている。
そういえば、七夕の折りに見た彼の字は、可も不可もなく比較的読み易いものであった。ただ、僕の字を汚いと一言のもとに両断してしまうくらいには、の話である。そしてその日に彼は三年前に移行して、当時の彼女の姿を一目拝んだとか。僕もどちらかというと、あんな息の詰まる薄暗い空間でてらてら光照る青い巨人を始末する作業なんかよりもそういうわかりやすい能力の方が良い。寧ろ彼に代わって体験したいくらいだ。彼はいつでも渦中にいる。
いつでも。
「え…、?」
今、何か大切なことに思考が行き着いたような。
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(080216)