誰か、誰でもいいから、キャスティングを見直せ。
昨日みた夢 03
閉鎖空間が発生しない。これは一体どういうことかと、機関は半ば恐慌気味である。神は閉鎖空間という自らの遊び場を捨てたのだととってもおかしくない状況だからだ。問題は閉鎖空間が出現しなくなったことではなくて(そんな事態が来るのなら諸手を挙げて歓迎しよう)、神は閉鎖空間で発散させていたストレスを、現在どこで発散させているのかということだ。機関の目の届かない場所で、世界が徐々に弄られているのかもしれないという恐怖に、お偉方は神経を尖らせている。
順を追っていくとしよう。
発端は先月の終わり、神の鍵たる彼が、同窓生らしき女性を伴ってとある店から今しがた出ようとしていたところを彼女が目撃してしまったことだった。
その日彼は当日の部活を団長である彼女に何の断りもなく中途退場して、いたく彼女の不興を買っていた。当然僕も彼の暴挙とも言える行動にストップをかけようと幾度となく釘を刺しに刺していたのだが、その甲斐空しく彼はそそくさと何かに急き立てられるかのようにして部室を後にした。彼は僕とのゲームを片手間に携帯電話を若干いじっていたようだが、そのときから僅かに様相がおかしかったと見受ける。拝み倒すまでは行かなくとも、頼むからと何度も口にしていた彼は、説明したくともできないもどかしさに苛々しているようだった。その剣幕に圧されて彼の背中を見送るに甘んじていた僕だったが、彼女の精神状態が大きくマイナスに傾いた時点でそれが大罪だと改めて思い知らされたのである。客観的に見れば些細なことこの上ないが、それが始まりであった。
荒れ放題の彼女が閉鎖空間を発生させるのは最早時間の流れるままであった。意外なことに彼女は彼とその女性(佐々木、と以前名乗っていた)が歩き去るのを黙って看過していた。恐らく、彼らの間へ割り入って怒鳴り散らすなどという選択肢すら念頭から転がり落ちていたのだろう。浮沈していた意識が完全に怒りへ向かう頃には、彼らは僕たちの視界から消え失せていた。
とにかく彼女の気が先刻に見た光景に苛立っている内は、バイトに駆り出されることが必至だと判断した僕は、適当な理由をこじつけて急ぎ家に帰り、出動命令が電子端末へ入るのを大人しく待っていたのだが。
その日、携帯電話が震えることはなかった。
「どういうつもりですか。彼女に無断で外遊すれば、閉鎖空間が発生し、ひいては世界の崩壊に繋がると以前にも説明したし、あなたも身を以って経験したはずでしょう」
翌日、半ば強引に部室にも行かずに校内をうろついていた彼を捕まえ、手近な誰もいない部屋へ引っ張り込み、彼へ昨日のことについて説明を求めた。
手荒な手段について釈明はしない。過去に彼が自分へ手を出そうとしたことに、怒りよりも先ず哀情を催した彼女は今回も同様の理由で閉鎖空間を発生させなかったのだろうと安楽に思っていたのだ。
「…昨日は、バイトはなかったのか?」
「おかげさまでね。それよりも、SOS団の活動より女性を優先させるなんて、一体何をお考えなのです?あの方…佐々木さんとの関係を以前否定したアレはまさかでまかせとでも仰有るつもりですか?」
彼は言い募ろうとする僕を片手で制し、鞄の中身を探り始める。彼が屈んだ拍子に、ふと鼻につく薄荷の香りが飛んできた。
「お前らに見られたのは少し計算違いだったな。できればぎりぎりまで秘密にして驚かせたかったんだが」
体を起こし、顔を上げた彼の手には、紙切れが数枚握られていた。可愛らしいレタリングのポップ体で、僕たちがよく休日に利用する喫茶店の近くにできたジェラートの専門店の名前がある。それは、開店したての店にはありきたりな、割引券だった。
「佐々木に無理言って何枚か取ってきてもらったんだよ。店頭に無料で置いてあるらしいんだが、俺一人で行くのも嫌だし、朝比奈さんにも長門にも言いたくなかったしな」
「じゃあ、昨日は…」
「昨日しか佐々木は空いてなかったんだよ。いや、本当は昨日も空いてなかったらしいんだが、少しだけ時間ができたってメールもらってよ…ハルヒ、この店気にしてただろ?早くしねぇとこの券渡す前に行きそうだったから」
「ああ…」
だから彼は急いでいたのだ。わざわざ時間を空けてもらった佐々木さんに報いたくて、何よりせっかちな彼女が店に行く前に割引券を用意したかったのだ。無愛想な顔でたどたどしい説明をする彼が何だかとても初々しく微笑ましく、そして好ましく感じた。つい微苦笑を溢したら、何笑ってんだよと彼に噛みつかれてしまった。いえいえ、今更ながらあなたのほんのささやかな心配りに感銘を受けただけですよ。
「引き止めてしまってすみません。涼宮さん、喜んで下さるでしょうね」
「さあね、それはどうだろうなぁ」
先ずは昨日のことを詫びにゃならん、と彼は気だるげに、けれど後生大事そうに券を再び鞄にしまいこみ、鞄を背負い直した。
今更だが、彼は無理矢理空き部屋に連れ込んだ僕の暴挙に寛容な態度だ。あれだけ詰られたというのに、それに気後れもなければ気怖じもない。いつも通り始終一貫して穏やかでどこか達観しながらも邪推するような、転校当初の僕をあらゆる意味で苛立たせ、悩ませてきた目だ。しかしその目は僕のみに適応されるものでは決してなく、彼女や長門さん、果ては朝比奈さんまでにも向けられると気付いたとき、彼なりの、SOS団の中で唯一異常なほどの普遍さや日常性を持ち合わせている彼なりの、環境を見極め、状況を把握し、吟味淘汰して得た情報で周囲を見つめ直すための観察なのだと理解した。それが、傍観者を気取る彼のスタンスなのだ。最近(本当は最初からだけど)は流石に自分が渦中に置かれていると体験しているようだが。
「ああ古泉よ」
「何でしょうか。早く涼宮さんにそのチケットを渡して、ご機嫌を窺った方がよろしいのでは?」
彼は鼻に皺を寄せて僕を睨めつけた。今のは僕の言い方が悪かった。せっかく穏やかに彼が彼女のご機嫌取りに行ってくれそうだったというのに、思わぬ失態を演じてしまった自分の気の緩み様に、舌打ちしたくなる。やはり待機したまま気が高ぶってあまり眠れなかったからだろうか。
「…、すみません。要らぬ気の回しでした」
「心配しなくてもハルヒの手綱は握るつもりだ」
「お気遣い痛み入ります」
彼の顔は険しいままだった。怒っているのかと思いきや、彼は眉根を寄せて僕を凝視している。たっぷり深呼吸が一回できるくらいの間を空けて、彼は漸く眉に刻まれた縦縞を解いた。呆れたように口元を綻ばせ、ついていけない僕にゆっくり言った。
「頭痛は、しないか?」
「は?」
「頭痛だよ。ガンガン、とか、キリキリ、とかみたいに、頭が痛まないかって聞いたんだ」
「あ、う、いえ、別に」
「そうか。ならいいんだ」
寝不足の頭痛は体が緊張して休まってないからだぞ、と彼は僕の肩を叩く。
…、まただ。彼に触られると少しだけ、体に感じていた負担が軽減する気がする。靄がかっていた頭がすっと晴れる。
よくよく見ると、彼の体はいつもより姿勢が悪くて、如何にもいつもと同様の懈怠を装ってはいるが、何故か辛そうである。先刻から鼻を通る薄荷の臭いは、もしかしなくとも冷湿布のあれだろう。彼のクラスで今日の時間割には確か、体育はなかったはずだ。ならば湿布は一体何のために使われているのであろう。
「…あなたこそ、湿布ですか?臭いがするのですが、どうかなさったのです?」
「臭い?」
「薄荷の、」
「薄荷、の臭いか」
おもむろに彼はべ、と舌を出した。易い彼らしからぬ挑発だと思ったのはとんだ勘違いで、彼が鋭く突き出した舌先には白濁した歪な球体が転がっている。これだろ、と彼曰く、薄荷の飴。あまり好んで舐められることのない、しかし需要度の低さとは関係ないとでも言うように、長々と梱包される色とりどりの飴の中に在り続けているそれを食べている彼はなかなかに渋い。
「谷口の野郎、カルピス味とかうそぶいて寄越してきやがって」
「それでも口にしたまま捨てないなんて大したものです。かく言う僕も昔同じ手に引っ掛かりましてね…、あの時の僕には薄荷の味が少しショッキングでして、すぐに戻してしまったんですが」
「お前にもそんなやんちゃをやる友達がいたんだな」
「昔の話です」
昔、せわしい今を思えばとてつもなく遠い昔の話だ。超能力なんて言葉だけしか知らなくて漠然とした憧れを抱えていた、中学にあがる前の、幼い頃の。
彼はどう思ったのか、少し渋面を繕って首を傾げている。彼は知らなくていい。易い同情なんかしなくていい。
「でな、古泉」
「はい」
「眠れないなら牛乳でもあっためて飲め。妹がよくやるんだが、寝れるらしいぞ」
「…、遠慮しておきましょう。いざというときに目が醒めなければ、下手を打てば世界の崩壊ですからね」
「心配するな。暫くはあのくそったれな空間は出てこねぇよ」
「え、」
彼は不敵に笑い、ただの勘だと言った。その軽々しさ、清々しさを僕はしかと覚えておくべきだったのだ。
かくして、閉鎖空間は現れずとも、僕は若干の不安に包まれて日常生活を送っている。
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(080213)