願うのぞみはただひとつ。




昨日みた夢 01




 さて、僕が常々彼に対して感じていた感想は、中庸の中庸、または凡庸という言葉と差し替えてもさして変わらないものである。成績は不振とまでは行かずとも、中の中から下の上までを慢性的に彷徨い、顔立ちも大衆が思わず足を止めて振り向くほど秀麗というわけでもない。中背中肉、友人も突出した何かを併せ持っている人物はおらず、至って平均を地でいっているような、そんな彼の客観から言える特技なぞ、せいぜいボードゲームが滅法強いということだけであった。僕がチェスのルールを教えた時点で初心もいいところだった彼は、しかし驚くことに次の勝負で僕を完膚無きまでに負かし、ボードゲームの対戦表にある僕の欄に、また黒星を飾る羽目になった。彼がゲームを覚える上で何か神がかり的な才能でも発揮したのか、はたまた単に実地が絡むと戦略知略謀略をイメージし易いのかは知らないが、「お前が持ちかけたゲームだから、もっと腕に自信があるのかと思ったんだけどな」 とつまらなさそうに宣った彼には、流石に僕も茶を濁さねばならなかったのは然程記憶に新しいことではない。
 と、これ以上僕が一敗地にまみれたゲームの戦歴を朴訥と述べても致し方あるまい。とにかく、彼のことは書類である程度把握していたが、転校当初に見た彼の印象は、これが神に選ばれた人物なのかと拍子抜けしたほどだ。それほどに、彼の持つ輪郭や雰囲気が、神である彼女の目に止まらないどころか辟易させる凡百の大衆とどこが違うのかと疑いたくなるくらい特異性のないものだったとだけ理解して頂きたい。その心象は彼が自分や周りを取り巻く環境の異常さを認識してから、大きく覆されるのだけれど。
 彼はとても懐の広い人間だった。というよりも、許容範囲が恐ろしく広い人間だった。
 結果的に僕が最後手に回る形になったが、恐らく宇宙人印の人造人間や未来人からも、信憑に足る確証を得たのだろう。僕が彼を閉鎖空間へ誘う前に、彼が未来から来た今よりも年長の朝比奈さんと会い、TFEIの急進派でありクラスメイトであった朝倉涼子の強襲により長門さんの人外的異能力を目にしたことは彼からの話や書類報告を瞥見して伝わっている。何より、初めて見る、神人が暴れ続けるかりそめの世界に、彼は数える程度にしか揺るがなかった。まるで全てを享受したかのように、彼女の能力や彼女の願望によって集められた僕らのカテゴリを、受け入れた。そして今尚、僕らを蔑視せずに『同じ涼宮ハルヒが作り上げたおかしな集団の一員として巻き込まれた者同士』以下でも以上でもない付き合いを続けている。正直、素気ないとすら取れる態度の不変さと物分かりの良さ(別種で悪いとさえ言える)に苛立ちもしたが、そんなことはどうでもいい。
 とにかく、許容範囲の広さ、或いは考えることを放棄してしまった思考の愚鈍さは、そういう意味では彼を特異なものにしていたのは確かである。


「おや、今日は読書をしているんですか」
「長門が貸してくれたんだ」


 そう言って彼が僕へ向けた本の背表紙には、カント哲学に準ずる著名な名前が。
 以前のあなたならそんな本は、頭が痒くなるとか言って、決して読もうとはしませんでしたけれど。
 浮かんだ揚げ足や皮肉は口にする前に消え失せた。『以前』がいつのことか僕にはわからないし、彼のどこがどう変わったのか、僕は上手く言葉にできない。確実に彼は変わっているというのに、彼にそう指摘できないのがひどくもどかしかった。


「なかなか興味深いぞ。コペルニクス的転回が哲学にも使われてるのは知らなかったな」
「カントは確か、見方の主客関係を根本から転換することを、コペルニクスの地動説に喩えてそう言ったんでしたね」
「どっちも形而上学に精通しているらしいがな」


 オイラーのケーニヒスベルクの橋を知らなくて、何故コペルニクス的転回を知っているのか、僕は直ぐ様彼を問い詰めなければならないような気がした。
 彼は本を脇に置いて、本日初めて僕を見た。相変わらず据わっている前髪の下で平均的なメラニンを湛えた目が僕を覗く。


「で、形而上学だろうが何だろうが、お前らの心棒する神様はハルヒなんだろう?」


 彼の目が悪戯っぽく歪む。お前らとは当然僕が所属する機関を示唆するものだろう。呆れることはあっても、彼がこのように論うのは今までになかったことだ。そして僕は、遅まきながらも広くない部室の中で慌てて彼女の姿を探す。


「ハルヒはいねーよ。掃除当番だからって、岡部を罵ってた」
「朝比奈さんはどうなさったんです?」
「少し前にトイレに行ったが…そういや遅いな」


 ハンガーにかかっていたメイド服が今はない。彼と長門さんの手元には湯呑がある。ならば彼の言ったことに嘘はないのだろう。少なくとも部分的には。
 昨日のゲームといい今日の本といい、ここのところ彼は少しおかしい。僕が部室に入る前にも、何やら長門さんに積極的に話していたようである。驚くべきは長門さんが聞き手ばかりか進んで彼に注進をくれていたことだった。どんな話題を槍玉にしていたのやら、僕が目礼と挨拶を共にしながら入ってきてからは、彼が話の続きをするどころか長門さんに話を振らなくなってしまったので、改めてそれを彼に尋ねるのも、盗み聞きという下賤な行為を肯定するようなものだとわかっているから尚憚られる。


「…また頓狂なことを考えてるな。お前は下らんことを真面目な顔で考えるから始末に終えん」
「いやぁ、僕もあなたがたまにわからなくなるのです」
「わからなくなるも何も、ハルヒに聞けば、雑用係だと即答してくれるだろうよ」


 話の矛先を僅かずつそらされたことに僕は些か安堵した。勿論彼が何であれ、僕としては、彼は飽くまで彼女のトランキレイザーに甘んじてもらいたい。若しくは少し前に彼が自ら宣った、このSOS団の良心と。


「読書が一段落ついたらゲームにお付き合い頂けませんか?」
「いいだろう。今日は何すんだ?」
「では、初心に帰ってオセロでもひとつ興じましょう」
「お前の好きにするがいいさ」


 彼は結局首肯するのだ。それが彼女に選ばれた最大の要因であり、僕も多くを彼の底無しである懐に救われている。それを口にすると彼はこれ以上になく無愛想な人相で否定用語を重ねるのだろう。下手の長談義とはよく言われるものだが、整然とされた彼の説明は聞くに易く、また、心地好いから不快ではないが。


「あ、古泉くん。こんにちはぁ」
「やあ、こんにちは朝比奈さん。相変わらず、給仕姿がよくお似合いで」


 僕がオセロを戸棚から引き出すと、彼は本を鞄に戻し、朝比奈さんも漸く帰ってきた。
 朝比奈さんは今や並々ならぬ奉仕心を発揮して、湯呑を暖めたり湯の温度を正確に測ったり、茶汲みに精を出している。
 彼女のいじらしいまでの甲斐甲斐しさに彼が顔をだらしなく弛緩させているのを見たところ、何も恋愛事や性差に無関心無頓着というわけではなさそうなのだが、如何せん涼宮さんが自分の想いに無自覚なまま、子供の癇癪のように騒いで彼を振り回している内は、どうやら沈静化が迂遠なものになってしまうようだ。


「さて、吉と出ますか、凶と出ますか…」
「お前は必然的かつ強制的に凶だ」


 そういう意味じゃないんですけどね。
 白を選んだ彼の、僕のマグネットを大量に引っくり返すその指先を見て、僕はへらりと笑った。「早くも戦況悪化のくせに笑えるなんて、お前はマゾか」 と心外なことを漏らす彼を尻目に、僕はうっかり聞き及んだ彼と長門さんの会話により、別の場所へ意識を移送していたのだ。
 朝倉涼子の件をお忘れでないのなら、何故彼らのような急進派に接触しようなどと考えているのです。







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(080205)