音楽が好きで好きで仕事にしてそれで食って行きたいと、そこまでの情熱を抱いてこの道に進んだわけじゃない。真剣に音楽の道に行きたくて金も時間もつぎ込んでいる奴には大変申し訳のないことだが、何故だろう、俺はこちらの方面にどうしても冷ややかな視線を向けてしまうのだ。幼少の頃、妹が生まれてそちらばかり優先された時期に俺がある程度何とも可愛げのない冷めた子供に育っていたから、というのが最たる要因かもしれんな。
だからお前が気にすることじゃないんだ長門。
ravenous ruffian
暗褐色のウィッシュが柔らかい白色の建物に滑り込むような優雅さを以って入る。長門の免許証はゴールドと見た。無事故無違反に違いないほどの正確さと惚れ惚れとするギアチェンジで、長門は敷設された駐車場に車を停める。
「ありがとうね有希」
「問題ない」
どうでもいいんだが長門、その応答は何とかならんのか。機械を相手取っているようで少し虚しいんだが。
「何言ってんのよキョン。有希はクールビューティなんだからこれで良いの」
「クールビューティってお前マネージャーの長門に何目指させて…や、なんかもういい。好きにしてくれ」
どうせハルヒには何を言っても聞かんのだ。朝食という栄養源もなしに太刀打ちすると疲弊を通り越して老衰になりそうだ。そんな愚行はしたくない。俺はため息を吐いて建物を見上げた。
二階はほとんど硝子張りで、一階とは吹き抜けになっているようだ。あまりこてこて仰々しい装飾品がないというのに、やたらと金のかかりそうな重厚な家である。漸く醒めてきた俺には、既に自分のマンションをこいつらに見せたことが悔やまれることのように思えた。
「キョーンー?何ぼっと突っ立ってんのよ。さっさと欲しい楽器を言いなさい。年代ものは流石にないけど、フォルテピアノとかストラティバリの比較的新しいのならあるから」
「げ。」
あれがいくらかお前わかってるのか。良心的な値段でさえ千万単位だぞ。人の足元を見たものなら百億はふっかけられるのが必須である。俺の脳裏に、オークションで相場の値段の二倍三倍を即決で積み上げるハルヒのイメージが簡単に浮かんだ。事実似たようなことをしているのではないか。
「あれ。お前打楽器と指揮課じゃなかったか?弦楽器なんていらないだろうが」
「ばっかねぇ、そりゃアンタが弾くから、…何でもないわ」
「?…そうか」
借金さえしてなけりゃいいが。あまり無理してくれるなよ。
ハルヒは声を張り上げ、そんなことどうでもいいのよ! と怒鳴り散らした。顔が赤いのは図星だからだろうか。いや、その事態はやや歓迎できないので、風邪ということにしておこう。訳知り顔で古泉が肩をすくめている。なんだアメリカ人の真似か?
「俺はヴァイオリンかビオラが良いと思う」
「ヴァイオリン?それじゃあまり速さが調整できないじゃない」
「そんなことはないさ。弾き方次第ではかなり面白くなるぞ」
「面白さを求めてるわけじゃないわ!」
「まあまあ、お前ら両方の要望に一番応えられそうなのははっきり言って鍵盤楽器なんだ」
古泉がえ、と溢す。
なんだお前。もしかして、自分の要望が通らないと思ったのか。俺がハルヒに抱き込まれた人間だと思っていたのか。失礼な奴だな、ハルヒも長門も飽くまで公平公正な意見を求めているのだろう。仕事として承った以上は要望に可能な限り応えてやるのが当然だ。お前も歌に手を抜きたくないと言ったし。
「いえ…いえ、ありがとうございます。僕はっきりとは口に出してないのに…」
「良いピアノは音が柔らかいからな。お前の希望する曲調も緩やかな方だし、わかるさ」
古泉はとみに嬉しそうな顔で笑った。なかなか可愛げのある奴じゃないか。しかし俺より頭半分くらい背が高いので、大型犬に懐かれているような気分だ。
「曲調は?」
「長調にしようと思ったんだが、ちょっと明るくなりすぎるかもしれん。だからドイツリートをちょっと混ぜてlargamenteにしてみようと思う。テンポは…そうだな、72くらいで」
「いきなりそんなこと言われてもあたし知らないわよ」
ハルヒはあっけらかんとして爆弾を落とした。漸く頭に血が巡り始め、嬰記号と変記号をいくつかつける算段をしていた俺は、楽譜も出さずに腰に手を当てているハルヒに首がもげる勢いで振り返った。見るとハルヒは別段機嫌を損ねたわけでも、突拍子のない思い付きを考えついたわけでもなさそうだった。
おいおいおい、お前曲がりなりにも作曲家なんだろ?仕事を放棄するようなことを言っていいのかよ。
「言ったじゃない、アンタに実演してもらった方が早いって。アンタの演奏を録って編集するのが手っ取り早いのよ。今から作曲したんじゃ期限に間に合わないの。何のためにアンタ呼んだと思ってるわけ?」
「ちょ、ちょっと待てよ!一介の作曲家がそこまで監督できるわけないだろ!」
「何言ってんのよ!作曲家として、自分の気に入らないところを見過ごすなんて責務怠慢じゃない!」
「そうじゃなくてだな…!」
ああもう、ハルヒの支離滅裂な言い分など露ほどにも理解できそうにない。俺はより明確な説明と釈明を求めて長門を見た。
「今回のみということで、制作側担当者上部がゴーサインを出した」
「だから、手抜かりなくやりたいのよ、あたしは」
ハルヒはこの了承を得るまで、一体どんな駄々をこねたのやら、想像するだに恐ろしい。けれど、ハルヒの目に浮かぶ一種のすがるような感情を、よせば良いのにしっかり見つけてしまった俺は低く長く唸るしかなかった。
「機材はあるんだな」
「当然よ」
「曲の流れを本当にヴァイオリンだけでやるのか」
「アンタがやるんだもの」
無茶苦茶だ。しかしそこまで言われちゃ男として退いては駄目な気がする。というか、頼まれ事に弱腰など情けないと後ろ指を指されそうだ。もしくはハルヒに刺される。
俺はハルヒに手を出した。
「貸せ。成丈古いヴァイオリンだ。手入れはしてあるんだろ?チューニングと練習する時間を寄越してくれればいつでもいいから」
今更ながら大変なことに首を突っ込んだものだ。演奏など、試験官と家族の前でしかやったことがないというのに。
喜色満面なハルヒからもらったケースは、運動不足の俺の腕には少し重い。
※ドイツリート…ドイツ歌曲。全体通してメロディが密接に絡み合うのが特長。
※largamente(ラルガメンテ)…用語。緩やかに、幅の広くの意。
※嬰記号・変記号…♯と♭
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(080104)