久しぶりに触る楽器。冷たい感触が心地好い。
何も考えずに日々をのんべんだらりと過ごしていた学生時代には、到底想像にも及ばなかった世界だ。
ravenous ruffian
先に言っておくが、俺は作曲が苦手である。拍子記号と小節の中の音符の総和が合わないし、アレグロだの、いちいちドイツ語で書かれた字など覚えていられない。ただ俺の耳は滅法性能が良いらしく、ハルヒ曰く曲中の違和も難無く拾えるとのことで、ハルヒからこの仕事の話がきたとき何とかなるだろうと腹をくくったのだが。
卒業して穏やかな生活に慣れた最近の俺は、どうやら認識の甘さが顕著になっているようである。
「ハルヒはやや速めな曲調が良いんだよな。で、作詞側の古泉はもうちょっと落ち着いた感じが良いのか」
詞を作る方もやっぱりそれなりのイメージがあるんだなあ、だのとぶつくさ言っているここは俺の自宅である。
ハルヒとアドレスも交換し、長門からカラオケのMDを二枚受け取った俺は、仕事の合間に休憩がてら取り掛かれば良いだろうと思っていたのだが、何故かこちらの方が気力を削がれる気がする。作曲がこんなに疲れるものか知らない俺がどれほど在席中に励まなかったか窺い知れるであろう。
俺が弾いた音をハルヒが紙に起こすというのが一番手っ取り早いが、ハルヒも多忙の身であるため、頼るのは何だか気が引ける。というのは建前で、契約違反よとハルヒに減俸にされては堪らないからである。意見を求められたのに俺が作曲に携わっている時点で契約違反の臭いがするが、ハルヒに直談判したところで勝訴をもぎ取れるか、情けないことに、正直言って望み薄だ。
昨夜なんかは悔しくて睡眠時間を減らして仕事に使う予定だった大学の教材を引っ張り出してまで作業に没頭したのに、なかなか報われないものだ。というわけで本日は寝不足デイである。
上下のスウェット一枚で朝食代わりにコーヒーを飲みつつ、見もしないテレビを垂れ流し、仕事用のパソコンをつけて、何をするでもなく呆っとする。
今の仕事は何だったか。どこぞの楽響団のコラムだったかな。
「こらキョン!何してるの!いるなら居留守なんか使うんじゃないわよ!」
馬鹿だなハルヒ。居留守は家にいながら留守を決め込むから居留守なんだ。
「…俺お前に住所教えてないよな」
「編集社に直接聞いたわ。手間かけさせないでよ」
勝手に調べた癖に随分理不尽な頼みだな。ああ、そこは触らないでくれ。一応カテゴリ分けしてあるんだ。ところで、番号とか交換したならわざわざ直接俺の家に来なくても、連絡のひとつでも入れたらどうだ。
ハルヒは女としては駄目だろうと言われるくらい物凄い顔をして、携帯電話を投げつけた。履歴にハルヒの名前が連なっている。だんだんと分刻みに近くなっている様子はハルヒの堪忍袋の尾の短さのように思えた。
「…何というか…その…………すまん」
「全くだわ!部屋も寒いしアンタよくこんなところで仕事してられるわね!!さっさと準備しなさい!みんなもう揃ってるんだから!」
…みんな?
MDと楽譜がハルヒに奪われ、俺は仕方なくスウェットの上にジャケットを着込む。コーヒーが残ったままのカップをシンクに突っ込み、テレビを消してパソコンを閉じて小脇に抱えた。駄目だ、頭が上手く働かん。
「どうせアンタのことだから楽譜に起こせなくて進んでないんでしょ。なら私のオフィスで実演してもらった方が早いわ!」
ハルヒにつられて転がるようにエントランスを出た俺は、道の脇に停まった車に、長門と古泉が乗っているのを見た。なんだ、みんなってあいつらのことか。
ハルヒに座席へと突き飛ばされ、古泉の肩にぶつかる。朝から爽やかスマイルを浮かべてらっしゃるアイドル様は如才なく笑い、おはようございますと言う。長門はハルヒが助手席に座ったのを見届け、ギアを引いた。
「…おはよーさん。朝からご苦労なことですね」
「無理に敬語を使わなくてもけっこうですよ」
「あ、そう。じゃ遠慮なく」
くあ、と欠伸をする。
悪いが俺は男のアイドルには興味がないので、遠慮は要らないと言われればその言葉に甘えさせてもらうさ。男の顔の良し悪しなんて一考もしたくない。悲しくなるじゃないか。
「良いお住まいですね」
「そうか?不動産に勧められるがままに買ったんだが。一人暮らしにはいいが一般のマンションより少し手狭だしな」
まあ、俺の骨を埋めるには分相応だろうけれど。
「歌手ってのは存外暇なのか?やたらスケジュールに追われるイメージがあったんだが」
「まだ駆け出しなのでその是非は僕の口からは何とも言えませんが、決して一概に暇というわけではありませんよ。僕も一応、今日の午前までが限界です。拠点は大阪なんですが、東京にも出張に行きますし」
「たかが作曲でここまで汲んだりしてるのか、お前」
「僕も歌に関しては手を抜きたくないですし、涼宮さんのような多忙な方に作曲を担当して頂くんですから、こちらから出向くのが礼儀と」
おお、今時女性に優しい感心な(俗に言う腰の低い)奴だ。しかし相手を選ぶべきだぞ古泉。ハルヒに一度甘い顔を見せたら、それこそ骨まで残らず搾取されるからな。
「ちょっと馬鹿キョン!古泉くんになんてこと言うのよ!変な誤解を招くじゃない!」
「いいや、聴衆は真実を知る権利がある」
お前の外見に騙されて影で泣いた男たちを俺は知っているぞ。谷口の馬鹿とかな。そういえば谷口も国木田と同じ会社勤めだが、女に目が眩んで馬鹿なことに走ってやしないだろうか。外資系とのことらしいが、まかり間違っても借金の連帯保証人に俺を指名しないで欲しいものである。
「あ、ところでアンタ、腕は鈍ってないでしょうね」
「知らん。音楽関係とはいえ、俺の仕事は全く楽器に触らんからな」
「使えないわね!まあすぐにわかることでしょうから不問にしといてあげるわ」
「そりゃどうも」
実は卒業した後に、一回家族の前でリサイタルのようなことをしたのだが、恥ずかしくて言えたものではない。
大体俺はサークル内でアマチュアのオーケストラに数回気まぐれで参加しただけだし、何かの賞を採ったり留学したりと活動盛んだったわけではないのだ。たまたま楽器方面に強かったのであって、昔から練習してきた奴らには当然劣る。どうせならマエストロ志願の方が楽だったかなと叩かれそうなやる気の低さだ。自慢にもなりゃしない。あまりのやる気の無さに、講師には付け焼き刃でそれだけ弾ける才能があるのに、と泣かれたこともあったが、知るかそんなもん。
ああ、仕事の〆切まであとどれくらいの日数が残っていただろう。朝比奈さんに泣かれる事態だけは避けねばなるまい。
車は走る。腹ペコの俺を乗せて。
※マエストロ…指揮者
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(080103)