お願い。これだけは知っておいて。
09
あそこは通常授業の場合、人があまり寄り付かない。
そう図った俺は自分の見通しの甘さを思いきり恨んだ後、それはおかしいだろうと安堵した。状況は、どちらかと言えば寧ろ悪しき方向へと転換しつつあるけれど。
「あ、あわ、ききき、キョンくん…」
ああ、どもり噛みまくるあなたのファニーボイスが活動以外でも聞けるなんて僥幸ものです朝比奈さん。
俺は目の前でおたおたしている朝比奈さんをぼんやり見ながら午前中最後の授業が始まる音を聞いた。朝比奈さんは俺の登場に完全に呆気取られたらしく、そして俺は本日四本目の似非血液を飲んでいる最中のことである。もう一度言おう、状況はなかなか辛くなりつつある。
大体、誰がこんなところで朝比奈さんと鉢合わせるなどと予想できるだろう。今は授業の真っ最中で、俺はともかく朝比奈さんは授業を何とはなしにサボったりしない御人である。俺がたまたま選んだこの部室棟に朝比奈さんがいるのは、天変動地の前触れかもしくは青天の霹靂って奴だ。
「あの…」
「わひゃ、は、はいっ?」
「何してるんですか…?」
「ええと、その。あの…」
目に見えて動揺する朝比奈さんの手には携帯電話がある。このお方がこういうものをいじること自体が物凄く珍しいことのように思える。日頃ハルヒによって如何なメイド服を着せられ給仕するひどく懐古的な風景を見ていたからか。というか朝比奈さん、携帯電話なんて使えたんですか?
「未来にあるのかは仔細が禁則事項なんですけど…ほら、涼宮さんからの連絡が受け取れないと困るでしょう?」
まあ、なければないでハルヒが強制的に持たせただろうが。
朝比奈さんは両手でえい、えい、とボタンを押す。拙い仕草は今の現代人みたく偉く場慣れして素っ気ないそれよりもずっと新鮮である。その様子を見て、何となく、朝比奈さんのいる未来に今の形の携帯電話はないのかもしれないと推測した。
「ところでキョンくんはどうかしたんですかぁ?」
う、と俺は喉の奥で苦鳴を漏らした。朝比奈さんの質問は至極まっとうなものであり、大意も他意もないことはわかっているが、時間差で来られるとどうも反応が鈍ってしまう。朝比奈さんは微妙に固まってしまった俺の手元を不思議そうに見遣り、首を傾げた。
「そんないっぱい…もしかして全部キョンくんの?」
「え、ええ。長門がくれたんです。詳しくは知らないんですが、滋養に良いものだと聞いて」
「長門さんが…?」
一瞬、朝比奈さんの目が少し尖る。何やら朝比奈さんは無表情で感情の抑揚もはっきりしない長門を苦手としているらしい。まあ帰属している背景の規模も長門が一番確固たる存在だし、信用性の高さは朝比奈さんの知るところでもあるだろう。何か言いたげに袋の中身を気にしてらっしゃる朝比奈さんには悪いが、本当のことを言って不用意に怖がらせたくなどない勝手な俺の気持ちを察していただきたい。
「一昨日はすみませんでした。あの時は何か俺ちょっとどうかしてて…」
ううん、朝比奈さんは困ったように笑いながら首を振った。そんなお顔をさせたかったわけではないのに。
「あの時はキョンくんも調子悪かったでしょう?無理させちゃってごめんね、」
「気にしないで下さい」
所詮身から出た錆である。まあ、この現状が俺自身で招いたとは一概には言い難いので、いくら朝比奈さんが気にしてらっしゃる素振りをしても、余計な心配をさせてしまう可能性があるので迂濶には口に出せない。心の中で彼女に謝る。朝比奈さんは幾分か安心したような顔をして、ありがとうと呟いた。どうやら俺の浅はかな思惑に目を瞑って下さるようだ。
「ところで朝比奈さんは授業をサボるなんて余程大変なことでも…あ、もしかして俺が聞いちゃいけないことですか?」
朝比奈さんの顔が些か青くなったのを見止めて、慌てて取り繕う。朝比奈さんは難しい顔をなさって、言おうか言うまいか検討しているようだ。朝比奈さんも正直な方だ。呪文が如き、禁則事項の一言さえ口に出せば俺はもう何も言えないのに、朝比奈さんは一生懸命俺なんかのために悩んで下さっている。
途徹もなく申し訳なくなって、無理に言わなくても良いですよと俺が首を振ろうとした、その時。
「…昨日、古泉くんから連絡があったんです」
朝比奈さんは、こちらをちらりと窺いながら言った。
昨日、とは、明らかに奴が俺の家に来たことに関係するのだろう、と何故か漠然と思った。まさか古泉の奴、ただでさえ倒錯的な衣装をハルヒに強いられている朝比奈さんの心労を増やすようなことを言ってはいないだろうな。というか、あいつ朝比奈さんと個人的に連絡を取り合っている仲なのか。羨ましいにも程がある。
「キョンくん、目と歯がどうかなっちゃったって聞いて…」
くそぅ、古泉は腐っても古泉だったようである。見逃すへまなどしなかったということか。
「あの、その、それで…キョンくんのこと、それとなく気遣ってあげるように、って…」
余計なお世話ですよね、とうつ向き加減に言う朝比奈さんに、俺は気の利いた一言もかけてやれなかった。
古泉がそんなことを?何のために?あいつは俺がハルヒのご機嫌取りに奔走していればそれで良いんじゃないのか?
「えと、あの、お節介かもしれないし、頼りないかもしれないですけどっ、」
朝比奈さんは俺を見上げた。俺の目を間近に覗き込んで言った。少なくとも一回は、俺のせいで怖い目にあったというのに。
「少しは私、たちのこと、頼って良いんですよ…?」
自信なさげな言い方が何とも朝比奈さんらしいと思ったのと同時に、彼女に長門と古泉の影が被ったように見えた。それがやたらと俺を情けなく感じさせる。
俺、いつの間にこんな情けない人間になったのだろう。
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(071227)