あなたを守ることが私の役目。それは私だけに該当するにあらず、形こそ違えど、あなたを守ることを潔しとしない人などいないと、どうか知っておいて。
そして、あなた一人では辛くなったらその時は、誰でもいい、けれど、誰かを呼んで欲しい。
10
活動の終わりを告げるハルヒが、気遣わしげにこちらを見た。俺は苦笑いをひとつ溢して、ハルヒに、心配してくれるなと言う。一応、授業だって峠を乗り越えたんだ(それが似非血液なんて代物のおかげという俺にとって受け入れ難い事実だとしてもな)。ハルヒは一瞬泣きそうな顔をしたが、瞬きひとつでその気配を消して気丈に笑った。
「それでこそ我らが誇るSOS団よ!」
俺の言いたいことが微妙に歪曲して伝わっているが、指摘する前にハルヒは誰をも待たずに部室から足早に去っていった。もしかしたら泣いてくれているのかと自惚れて良いものだろうか。心配をかけ通しだったからな。
「それで、ハルヒがいなくても、やっぱり移動は必要だと思うか長門?」
「…彼女が戻ってくる可能性は低い。けれど、いつまでもこうして残っていると、ここにいる教職員に見つかるかもしれない」
見つかるなんて言い方はまた、悪戯を企む子供のような躍動を感じるな。
「ところで、無し崩しという形ではあるものの、曲がりなりにも彼の事情を知っている僕らは、あなた方との同行を許可して頂けるのでしょうか?」
古泉が両腕を軽く広げて大仰に提案する。
長門は俺を見る。一応俺の意思意向を尊重してくれるつもりはあるようだ。俺は首を傾げて見せる。これから長門が何をするのかは皆目見当もつかないが、何も知らない俺が逐一口を出すよりも長門に一任した方が状況は悪くはならないだろう。途徹もなく情けないがな。
しかし何故だろう。今までどうしたって退かなかった飢えがようやっと満たされたからか、いっそ諦めたからか、このヒモのように不甲斐ない相好も何だか悪くないような気さえしてくるのだ。ひどく気分が穏やかである。
長門は一度だけ頷いた。
「あなたたちも、ついてきて構わない」
息を詰めていた朝比奈さんがぐっと呼気を吐き出す。色濃く残る生き物臭さが堪らなかったが、下唇を噛んで遣り過ごす。僅かに覗いたのであろう、俺の口元を見た古泉がためつ眇めつして言った。
「物の見事に伸びてますね、犬歯」
「うるさい。顔が近い。息を吹きかけるな気持ち悪い」
「野性味溢れる感じがまんま映画から出てきたアレみたいです。俗に言う、吸血鬼」
「人の話を聞いてるか?」
長門が俺に血液袋を渡してきた。忌々しげに俺は古泉を睨みながらそれを受け取る。古泉の声音が飽くまでも微笑ましさを滲ませているのが殊更疎ましい。飲口をぎりぎりと噛みしだく。
「後の説明は私の家で」
ん、何故俺一人のときは公園を指定したのか。少し考えれば何てことはない、単に人数の多さを考慮した上で、長門自身が家の方が良いと判断したのだろう。
*
相も変わらず殺風景な部屋に勿論空調はなく(夏休みにしかとこの目に収めた冷房を長門は 「片付けた」 と言った。文字通り、存在そのものを片付けたと推測される)、それでも空気はひやりとする。だだっぴろいリビングにぽつねんと四角張った茶卓があり、長門は早々にキッチンへ足を向けた。本のひとつでも置けば良いのに、と俺は敢えて口にしない。図書館には今も通い詰めているのだろうから。
白湯の準備をしたのか、戻ってきた長門は鞄から一枚のDVDを取り出した。おどろおどろしい題名のフォントがよりB級ホラーの陳腐な安っぽさを感じさせる。
長門は静かに、厳かに言った。
「今年の夏に、封切りされた映画」
今年の夏というワードにひっかかりを覚える。古泉も朝比奈さんも眉根を寄せている。
「唯一、紆余曲折を経てこれを見たのが、3276回目の8月12日。あなたが死ぬ前日のこと」
ひゃ、と息を呑んだ朝比奈さんには一顧だにせず、長門は俺を真っ直ぐ見た。その目がやたらと厳しい色をしているので、俺は固い唾を飲み込む。
「どういうことでしょう」
そういえば、朝比奈さんも古泉も俺がどうしてこうなったのか、その経緯を知らない。
「…涼宮ハルヒはこの映画を見て強く、彼がこのような猟奇的存在になるようにと願った。吸血鬼になるには吸血鬼に血を吸われ、一度死に、また生き返ることが必要条件」
「…でもそれは、リセットされた、のでは…?」
「正しくはされていない。彼の変化を見られなかったことにより、涼宮ハルヒの中でその願望はフラストレーションの残滓に変わり、蓄積され続けた」
今の彼が変化しているのは、その願望の影響が少しずつ表に現れてきている証拠。
長門の言葉に、うう、と俺は唸った。ハルヒの考えていることは常々わからないが、今回は郡を抜いてのそれである。こんな中途半端な化け物になってしまった俺に、一体あいつは何を望んでいるのやら。
「彼を元に戻すことは可能ですか?」
古泉の問いに答えるかのように、唸り締め出すような声を出していた俺に、長門は静かに視線を向ける。
「可能。残滓を取り除き、体の変調を戻す」
「ふぇ、じゃあ、じゃあ、キョンくんは元に戻れるんですね?」
良かったぁ、と胸を撫で下ろす朝比奈さんの声が鼻がかっているのを聞き咎め、また少し申し訳ない気持ちになる。
「ただ、それには彼の意識の改変が必要。通常の人間にとって、生き血は不味いものだという認識の更改が」
「…とどのつまり何だ、長門が改変をしている間、誰かの血を飲んでいろ、と?」
「要約すればそうなる」
俺は気まずげにことの次第へと足を突っ込んでいる二人を見た。話を聞く分ならばまだ良いが、古泉が相手では絵面としては何かときついものがあるし、朝比奈さんに至っては過去に一度手非道いことをしている。現に朝比奈さんは俺のやった視線に体を硬直させてしまっているのだからいくら何でも無理がある。
「これじゃあ駄目なのか?若しくは俺のとか」
俺は似非血液の袋を掲げるが、長門はゆるゆると首を振った。
「それは飲み易いように成分を少し調整してある。できれば本物が良いけれど、あなたの血で駄目なことは、あなた自身が知っているはず」
あの腹の膨れない空しさは確かに遠慮願いたいが。
可能な限りこの二人には関わって欲しくなかった俺としては、本格的な八方塞がりである。古泉は暫し沈思するような素振りをしてから、僕がその役を買いましょうかと手を挙げた。
「おい正気か」
「第一に、吸われるこちら側に、影響がないこと。第二に、吸われる部位は関係ないことが確認できれば」
「了承した」
古泉は俺ににこやかに告げる。
「僕としても首に噛みつかれるのは勘弁願いたいです。かと言ってほとんどトラウマになっている朝比奈さんには重荷が過ぎますし、長門さんの手を煩わせるようなことになったらそれこそ本意ではないでしょう。僕で妥協してはもらえませんか?」
同じことを考えていただけに、改めて指定されるとぐうの音も出ない。さあどうぞと言わんばかりに腕捲りをした古泉と、お役に立てなくてすみませんと今にも伏さんとする泣きそうな朝比奈さんと、既に臨戦態勢に入った軍隊もびっくりな殺伐とした空気を発する長門を順々に見渡し、俺は脱力したように目を閉じた。
こんな目に遭うのは今回限りだぞハルヒ。
ええぃ、ままよ!
カーテン・コール
(おはようキョン!今日は顔色が良いじゃない)
(まあ、筋張った腕にお世話になったという、かなり不本意な手段だったことには変わりないさ)
(071228)