3276回目の夏、始まりはいつも彼女。




08




正直言って、生き物の臭いが充満する教室で勉学に励むのは、いつも以上の無理を強いた。何たって、死にそうなほどの空腹のまま、餌を目の前にお預けを食らっているようなものだ。教師の高尚じみた声も、生徒の囁きも、二重苦三重苦となって耳に響いてくる。生き物の気配、生き物の臭い。生きている、音。脈々と流転する、血の、巡、り 。


「キョン!アンタ顔真っ青じゃない!保健室行きなさい!」


がたん、と椅子が倒れる。ハルヒが割合大きな目を揺らしながら言った。待て、どうしたら後ろの席に座っているお前が俺の顔色なんて窺えるんだ。ハルヒの大音声のせいで教師はおろか生徒諸君までもが俺の顔色を一目拝もうとこちらへ顔を向けている。注目を集めることは俺の本意ではないのに、ハルヒがまだ騒いでいるおかげで注目の波は静かに、けれど顕著に広がりつつある。
教科書を開いたまま寄ってきた教師が気遣わしげに言った。


「あんまり酷いなら涼宮の言う通り保健室行くか?」
「いえ、」
「行きなさいよ!放課後の活動に障るじゃない!」


おい労ってくれるのは有難いがその打算は嘘でも隠しとけ。
文句を言おうとして、俺は口を押さえた。昨日、古泉の監視の下で無理に食べてみせた粥がみぞおちの辺りで渦巻くのを感じる。呻くとハルヒが一際騒ぐが、既に口内にじわりと染み出た胃液諸々で返事もしてやれない。あと少しで終了の鐘が鳴るというのに、俺はそれを待たずしてトイレへ厄介になることにした。
昨日の粥がほとんど原型のまま戻ってきて、最早消化機能が停止していることを知る。これじゃ食物も食えないわな、とやけに閑散とした気分で、ひくつく横隔膜を抱えて口をすすいだ。学校の水道水は何かと不衛生だと煙たがられるが、トイレと日頃から日陰にある物理室の水は思った以上に冷たいのだ。


「学校の水道水は浄水場の薬品がろ過されずに残っている可能性がある。あまり推奨しない」
「…長門」


長門は鞄とビニル袋を提げてトイレの入り口に立っていた。
今日は休みなんじゃなかったのか。またお前は男子トイレに平気で入りやがって。


「以前あなたが私に忠告した通り、無人で、あなたが小用を足していないことを確認してから声をかけた」
「……まあ、概ねその通りなんだがな。それでお前は調子が悪かったんじゃないのか?ハルヒからお前が休みだと聞いたんだが」
「これを精製していた」


長門は右手に提げていた袋を掲げた。白いビニル袋は何やら重そうで、長門の細く小さな手に幾分不釣り合いな気がする。


「数日間食事を摂っていない分。あなたが人間よりも吸血鬼と呼ばれるモノに近しくなっているのなら、恐らく飲めるはず。できるだけ早く飲んで」
「それじゃあ何か、そりゃ血なのか?」
「近い」


長門は俺の手にビニル袋の取っ手をかけた。やはり相当重い。長門の無表情は今やデフォルトではあるが、平然とこれを持てたのは彼女所以というわけだ。
中身をひとつ取り出してみる。病人食用のゼリーのような外観だ。銀色の割と硬いプラスチックの袋で、文字はない。隅の方に素っ気なく200mlとあった。コンビニで並べてある某製品と酷似しているから、人前で飲んでも構わないようにという長門の配慮なのだろうか…?
キャップを捻る。開けてみると、生唾が滑るように喉を下った。鉄分の臭いである。口をつけると一気に舌の根本が痺れて熱くなった。


「…刺身みたいな、嫌なエグさとか、全然ないんだな」
「それでも人間には血と同じ。特にあなたの周りにいる人間は好奇心が強いようだから、あまり教室で飲まないで」
「わかってるさ。トイレからいきなりこんな袋引っ提げて帰ってきたらおかしいしな」


こんなものを大量に飲んでいたら、谷口やハルヒがうるさくなるだろう。
俄かに教室の方が騒がしくなる。どうやら終礼が近いようだ。長門も静かにそちらへ目を向け、また、俺に目を向けた。


「活動後に話がある。公園で」


簡潔にそれだけを言うと、鞄を抱え直して彼女はトイレから出ていった。後ろ髪が俺の視界から消える瞬間に、ちょうど鐘が鳴る。それは寸分の狂いもなく、実に長門らしかった。
話があるということは、何か打開策を見つけたのだろう。俺はトイレに駆け込む男子生徒諸君と入れ違いになる形でトイレを出て(どこからどう見てもスポーツ飲料にしか見えないものを大量に抱え、トイレから出てくる俺を彼らはそりゃもうこれ以上なく奇異なものを見る目付きで見るのである)、どこに行ったものかと吟味する。早くも飲み終えた一袋目に呼気を入れ、吸い、また入れる。べこべこっ、下顎を通じて直接音が脳天に響く。
どうも長門の言い分では、これを教室で飲んでいると谷口の馬鹿が 「なになに、それ美味い?」 と人の許可なく奪って飲んでしまう可能性や、ハルヒが 「もしかしてそれトイレにあったの?新種のプロテインか何かかしら」 と即座に取り上げてしまう可能性を懸念しているようだ。そんな勿体無いことはしない。
これほど美味いものを手放してたまるか。
泡沫のように浮かんで消えた人としては如何な言葉にうんざりする。


「仕方ない。部室棟に行くか」


あそこは通常授業の場合、人があまり寄り付かない。







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(071222)