12日。私は彼らといつも通りの日常に確かにいたというのに。




07




左の親指を覆う、ごくごく普遍的な絆創膏に、俺は思わずふと笑った。今となっては最早今更だが、俺の体は疾うに人間というカテゴリを捨てたらしい。
昨夜、(我ながら無茶をしたと今なら笑い事にできるが、)衝動的に噛みついた指には本当に酷い出血を伴った傷ができた。肥大化した犬歯で血管も細胞も野別まくなしに噛み貫いたのだから、当然といえば当然だ。幸い、くどかろうと何だろうと僥幸なことに、布団を被ったまま貪欲に指を荒らしていた俺に古泉は気付かなかった。ちょうど妹が俺の粥と、厚かましいながらも古泉の夕飯をわざわざ持ってきて戸を開けたからだろう。妹が俺の醜態を見たという可能性も無きにしもあらずだが、日頃見飽きた俺よりも目の前で手伝いを申し出たフェミニストジェントルマン古泉の方が妹にとっては好ましかったに違いない。
噛んだのは親指の付け根。毛細血管満載の指にして比較的出血の多くなる場所である。反射で噛みついたものの、もしかしたらどこが血の巡りが良いのかを体が知っていたのかもしれない、だなんて、俺の精神構造上大変よろしくないので考えてはいけない。
食べた市販の粥は血の味でしょっぱかった。


「で、その傷は翌朝である現在にはかさぶたになっているのである、まる」


元より人間に備わっている自己治癒能力が形無しだ。寧ろ台無しの域にまで及びそうな。
傷全体の表面を舐めるように薄い血の固まりが覆っているだけで、噛み荒らした指は何事もなかったように原型を取り戻している。ただ、かさぶたの大きさが半端ないため、有り難くも家にあった大きめの絆創膏を貼って隠しているわけだ。


「よう!朝からやる気のねぇ顔してんな!」
「谷口…朝っぱらからやる気なんか出るか」


生憎と俺の体力が消費されるのは放課後でね。そう言うと谷口は顔をしかめた。


「おはようキョン。風邪治った?」
「おはよう国木田。本調子じゃあないが出歩けるほどには回復したさ」


もちろん方便である。


「げ。珍しく休んでると思ったらお前風邪なんかひいてたのかよ。俺にうつすなよー?」
「谷口は馬鹿だから安心していいんじゃない?」


国木田は爽やかな笑顔で谷口を斬って捨てた。哀れな。
理不尽に急勾配な坂を登る。谷口がまた女の話をして(よくもまあ、毎朝同じ話をしてネタが尽きないものだ。一種感動すらある)、国木田が笑顔のまま辛辣に谷口をなじり、俺は二人の間に口を挟まずに少し後ろを歩いた。
絆創膏の下の傷はしくしく痛む。四苦八苦苦心してコンタクトを入れてもまだ周りの景色は光で溢れ返っている。犬歯が下唇を傷つける。


「キョン早くしろよ!」


手を振って谷口に応えてやる。俺にできることはそれくらいさ。
教室に入るとハルヒは既に椅子にふんぞりかえっていた。
あらアンタ出て来れたの。
そう宣うハルヒは、少なくとも表面上はいつも通り憮然とした顔でいた。どうでもいいが円滑な人間関係を築くためには挨拶は必要最低限度の礼儀だぞ。


「別につまらない人間関係なんて築くつもりもないわ。私は宇宙人とか未来人とか超能力者とか異世界人とかと知り合いたいの」


異世界人はまだいないが、ご所望の宇宙人と未来人と超能力者がごくごく近くにいるとこいつが知ったとき、どんな顔をするのだろう。おまけに市内探索とかこつけて結局遊んでいることになるだろうし。しかし朝比奈さんはともかく、長門や古泉を宇宙人や超能力者と一括りにカテゴライズしてしまっていいのだろうか。古泉は何やら限定的だし、長門に至ってはどこの星に住んでいるとかいう次元ではない気がする。


「有希、今日休みなんだって。珍しいわー、何かあったのかしら…宇宙人に遭遇とか」
「そりゃお前の願望だろ」


しかし、風邪菌ごときにやられる長門ではあるまいに、監察対象のハルヒから目を放すのは、やはりそれなりの理由があるに違いない。ハルヒが見舞いに行くと言い出さないのなら、一人であいつの家にでも行ってみるか。
それにしても自分の血を食ったとしても、まだ俺は飢餓感に忍耐を試されるようだ。まあ犬歯に関しては大口を開けなければわからないだろうからある程度気を付けていれば大丈夫なはずだ。結局古泉の野郎も歯の方には気付かなかったしな(気遣わしげにこちらを見遣って「目の方は見たところ休むほどではないでしょう。お願いですから、できれば明日は学校へいらっしゃって下さい」と言いやがった。おい、俺の人権はどこに行ったんだコラ)。


「それよりアンタ、まだ本調子じゃないんでしょ。顔色が良くないわ」
「腹の調子が悪くてな、あまり物を腹にいれられないんだ」
「ふうん…あんまり無理しちゃ駄目よ。アンタみたいな雑用係でもちゃんとSOS団の団員なんだからね!」
「団長様直々の慈悲とは痛み入るな」


俺が苦笑いを返すと、ハルヒは殊更嬉しそうに笑った。現在抱える甚だ荷厄介な代物のおかげで、胸中はそれなりに複雑だったが、その笑みで幾分気持ちが軽くなった。
古泉もこんな気持ちを味わっていたのだろうか。







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(071219)