情報統合思念体の情報端末に接続確認。彼が一度死んだと思われる、3276回目の
夏に残存している軌跡の逆探知を開始する。
06
見られた。
見られてしまった。
悔い改め、後学のために活かせる点などないが(何せ不可抗力と偶然の産物である)、ひとしおの後悔が胸にじわっと染みてきた。古泉は古泉で何だか俺の顔をぼんやり見たまま呆けていて、俺はすっかりフォローのタイミングを逃してしまったのである。
「あ、の、…それは一体」
古泉の顔は若干引き攣り気味で、普段の爽やかスマイルはなりを潜めるどころか気配すらない。古泉の鉄面皮(笑顔仕様)が剥落するなどなかなかお目にかかれない、そんな珍しい様子にさえ、俺は揚げ足も苦笑いも寄越せない。
「すごい隈ですよ、あなた」
そりゃあ、いよいよ人間から別れを告げねばならなくなった、嬉しくないこの状況を打破ないし打開できる手を延々考えていたからな。ただの貫徹とは疲れなど精神的にも身体的にもその比でない。って、そういうことじゃなくて、お前見掛け以上に動揺しているだろう。質問が空疎でひどいものになっているぞ。
古泉は顔の右半分を手で覆い、目を瞑って深々とため息を吐いた。その間に俺は布団を顔まで引き上げて被る。眩しくて仕方がないのもあるが、シャツを着た古泉は白い壁と同化してよく見えないのだ。白い壁に髪とネクタイが浮いているように見えて、ちょっとしたホラーである。色盲障害は世間でもかなりの確率で発症するそうだが(しかも単純計算でいくと男は二人に一人の確率だ。なんてこった!)、それもこんな感覚なのだろうか。とにもかくにも、布団を被った方が割合マシになるのである。
「涼宮さんに、何か吹き込みでもしたんですか?」
「馬鹿言え。何故に俺が自分に被害を受ける状況を差し向けねばならんのだ。俺は被虐嗜好なんかじゃないぞ」
「でしょうね。夏休み中にそのような嗜好傾向が開花したなら話は別ですが」
わかっている。古泉が真面目に受け応えしているわけではないことも、奴がらしくなくかなり動揺してこんなくだらない問答を繰り返していることも。表面上は取り繕いでもしたかのように人をたばかった口調ではあるが、どうやら相当なダメージのようだ。
「本当に、そうなった理由を存じ上げないんですね?」
「理由どころか心当たりすら存じ上げないんだがな」
布団で限定した視界は狭い。しかし俺は古泉を自分の正面に据え、その動向を観察した。古泉は思案顔で(と言っても俺は古泉が剥き出しの腕を顎の下に持っていったことから推量したのだけれど)暫く呆っと立っていた。さて、古泉が突飛な提案をしたとき、俺はどういなすべきかね。
「キョンくん、お母さんが古泉くんにも晩ご飯食べてもらってったらってさー」
「だとよ」
助かった。正直何を言い出すかわからん古泉を万全でない状態で煙に巻くのは流石に無理がある。扉の隙間からひょっこり顔を覗かせた我が妹に感謝だ。古泉は困ったような笑顔で俺を見た。
「あなたは今日も食べないつもりですか?」
「悪いがそうなるな。俺のことは気にしなくていいぞ、不束かだが退屈はしない妹と親睦でも深めてくれ」
「いくら食欲がなくても食べなければ体だってもたないでしょう。まさかご自分の顔色が良くないことを承知で断食まがいな生活を送るつもりもないでしょうに」
「………」
生憎飢餓感はこの上ないほどに感じているさ。ただ、今妹や親がいると、誰彼構わず噛みつきそうなだけだ。なんて軽口が言えたらどれだけいいか。
妹は古泉が夕飯の恩恵にあやかるのを期待するような目で先刻からこちらを見ているし、古泉はそれを知りつつも俺の病状(この魔謌不思議な変体を病気と定義するならば、の話だが)が何であるかを見極めようとこちらの出方を窺っている。やれやれ。
「レトルトの病人食があったろ。持ってきてくれないか?」
「う?うーん、お母さんに聞いてみる」
妹の足音が遠退くと俺は古泉を見た。
「妥協案だ。食うなら構わないだろ」
「ええ」
「ったく、お前に食生活に関して諫められるとはな」
古泉はふふ、と小さく笑った。笑える余裕はできたようである。
下で母親と妹の会話が聞こえる。どうやら粥が見付かったようだ。粥なら食べられるだろうかと考え、脳裏に浮かんだでんぷんの甘味に少し吐気がした。
ああ、目の前から呼気の熱と生き物の臭いが立ち上っているのに、何故ニンゲンの食糧を。
「…あ?」
「どうかしましたか?」
俺は愕然とした。古泉が何か言っているが、無視した。
もしかしなくとも、今俺は自分が人間であることを否定しなかったか。まるで農家の皆さんが苦労して作った穀物が食するに値しないような失礼なことを思わなかったか、俺。
「どうしましたか?」
古泉が近付いてくる。シャツの白と柔らかそうな髪と、一際目立つ肌色。来るなと叫びたくなるが、口を開けばそのまま首を食い千切るくらい、古泉の生っ白い首に俺はどうしようもない飢えを抱えている。
過去に厭うたことさえあれど、俺はこれほど理性的な自分の性格に感謝したことがないと自嘲しながら、親指に噛みついた。
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(071218)