体が気だるく感じたのは、恐らく心肺蘇生までにいくらかのブランクがあり、血液の流動が止まっていたからと考えられる。しばらくすれば治るものと思われるが、…ごめんなさい。私にあなたを治す術がない。
02
「大丈夫ですかぁ…?」
ああ、朝比奈さんにカッコ悪いところを見せてしまった。眉根を寄せて心配して下さるのにはちょっとした優越感を感じないでもないが、安心させてやるための笑顔すら今の俺には作れない。情けないことこの上ないが今は目の方が痛い、痛い。
「熱射病でしょうか…まだ暑いから無理しないでね」
「全く、夏休みの間たるんでたんじゃないの!?」
「まあまあ涼宮さん、彼も体をおしてこうして顔を出しているわけですから…」
上から朝比奈さん、ハルヒ、古泉、の順である。長門は本から顔をあげもしない。
何回、何十回、何千回と繰り返されたあの夏の日の後のこと。当然一学期と何が変わるといったこともなく、順当通りに放課後、元文芸部・現SOS団により占拠されている部室に行ったのだが、突如押し寄せた目の痛みに俺は敢えなくリタイアした。ついでに、その際に落としたラフ板が俺の足に落下したことを記述しておく。今も地味に痛む。
「レフ板を傷つけなかったから良かったものを…壊したらキョンの自腹で弁償よ!寧ろ死刑だわっ!」
「ああ、それくらいの責任は負ってやるさ…いかん。ちょっと頭冷やしてくる」
「大丈夫ですか?なんなら僕もついていきますが」
「いらん。途中で倒れるってこともないだろう」
というかついてくるな気持ち悪い。
俺はトイレに駆け込んで蛇口を捻る。痛いなんてものじゃない。もう、周りが眩しくて色の識別が利かん。普段蛍光灯が灯っていても薄暗く感じるトイレさえ、目を眇めなければはっきり見えない。目の中を光がひっかき回しているようだ。大量に入ってくる光と情報量に処理する頭もオーバーフロー気味だ。
そんな状態にも関わらず鏡に移り込んだ俺の目は景色から弾かれたように赤い。
おいおい、どんな充血具合だ俺は。
「…酸欠による瞳孔の拡散、それに伴う内膜血管の肥大と推定される」
「うお、長門か…」
蛇口の水を止め、出口に向き直る。
ここは男子便所なんだから、臆面もなく入ってくるな長門。誰かいたらどうするんだ。若しくは俺が小用を足していたらどうするんだ。
ぼんやりする影 ―恐らく長門であろう― に言う。
「了解した。次からは無人を見計らう」
「そういう意味じゃないんだが…まあ今は誰もいないからいいか。で、俺がこんな状態になった理由に心当たりはあるか?」
「あなたがそのような状態になったのは初めてではない。シークエンスの中でも、あなたの異常は確認された。ただ、シークエンスに限られたものだと思った私の独断で、秘匿にしていただけ。ごめんなさい」
抑揚のない長門の声が、トイレ構内のタイルに跳ね返ってわんわん響いた。捕え所のない声が更に遠くなる。今はもう長門の顔で感情を判断することも侭ならない。
「初めてそうなったのは3276回目の夜。あなたは一度何らかの理由で生命活動を止め、また、何らかの理由で生き返った。その間隙は僅か32分」
「ちょ、おい、死んだのは良くないが話が進まないからこの際不問にするぞ?だがその後の『生き返った』ってのはなんだそりゃ」
「理由は不明。けれど、今の状態になったのはそのときから」
実は命が複数あるとか笑えない理由ではあるまい。古泉が言った通り、十余年生きてそんな肩書きが付加されるような出来事にすら出会わなかった俺は(最近少し怪しいが)純粋な凡人だ。
しかし、3276回でシークエンスが終わったわけではないらしいから、夏休みが終わった瞬間に記憶も何もかもリセットされたのではないのか。
「確かに、3277回目をあなたは何事もなく終えた。次にそうなったのは8543回目。以後数回にわたりあなたはアルビノの擬似体験をしている。その間隔は徐々に詰まっていた。そして今日、」
「シークエンスが終わったのに、俺はまたこうなった、か」
そう、と長門は小さく呟き、ため息を吐いた。いつになく喋り、疲れたのかもしれない。こいつが疲れを感じるのか、知らないが。
「これは治せるのか?」
「不明。でも目に関しては矯正可能。これを使って」
渡されたのは白いケース。よく見るとコンタクトの保存ケースのようだが、白がやたら目に痛く、俺は手でそれを撫でた。うーむ、視覚障害者の皆さんがどれほど苦労をしているかをこんなときに体験できるとは。
「もしものときのためを考え、カラーコンタクトに手を加えた。網膜に入る光を調整できる。限界はあるけれど、多分、目の赤さもそれで誤魔化せるはず」
「そうか…でも俺じゃちょっと入れられんな。コンタクトなんか入れたことないし、誤って目を突き兼ねん」
「屈んで」
有無も言わさぬ言葉に、大人しく中腰になる。俺の手からケースを再度受け取った長門は、ケースからコンタクトを取り出して、俺の瞼を押し上げた。これから異物を入れるのは、その仔細が見えなくても怖い。怖いものは怖い。
「…じっとして」
「う…しかしだな、長門。こういうのは反射で仕方ないから…あ?」
眼科にある、風を目に当てる機械を相手取った気分だ。長門は半ば無理矢理押し込むようにコンタクトを入れた。痛くないところがせめてもの救いだが、長門にしかできないだろうと思うとぞっとする。
ありがとう長門、お前のおかげで俺の目は安泰だ。まだ少しぼやぼやするが、全てが眩しかったさっきまでよりはずっと良い。
改めて礼を言おうと瞬きを繰り返していた顔を上げて、
「おや、こんなところで逢い引きですか。少々無粋でしたね」
古泉、お前もうちょっと空気を読め。
男子トイレに長門と二人、うち一人は微妙に中腰。涼宮さんがお探しでしたよと笑うハンサムスマイルを浮かべるイエスマンに、俺は今の状況をどう説明すれば良いか思いっきり頭を痛めたのであった。
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(071129)