薄い雲が千切れ飛び糸月にかかる、何かしらの気配が濃い夜。俺はこんな夜が一番嫌いだった。こういった夜には必ず奴がくる。奴というのは、人の生き血をすする、俗に言う吸血鬼という奴だ。
日本にだって、吸血鬼はいる。大昔に海外から遥々渡来したとかではなく、日本古来の純血種で、まあ細かく言えば海外の吸血鬼とはカテゴリも名前も違うらしいが、血を吸うのは同じだしそんな細かい違いなんぞは一般人たる俺が知る必要はない、というのがお偉方さんの意向だ。
お偉方と俺は論って呼んでいるが実質俺よりも立場が上で、一応和平協定を結ぶ吸血鬼との盟約を取りまとめる人間のことである。
「やれやれ…今日辺りにまたくるだろうな」
部屋の窓の鍵を開けておく。どうせ忌々しい奴がくるのは深夜だ。俺の睡眠の都合も考えて欲しいものである。
吸血鬼はむやみに人を襲わないことを条件に、人間側から定期的に一定量の血を提供することを要求し、人もその要求を呑んだ。文字に起こすと簡単に見えるが、実践は意外と易くないこの盟約は、結ばれてからどれほど経ったか知らないが、幸いなことに侭ある程度守られてきている。で、その盟約を遵守するために使われているのが俺たち下っ端の調停員というのは些かわりに合わないと文句をつけたいところなのだ。早い話が、吸血鬼の補給する血の出所が俺たちというわけで。
「こんばんは」
ほらきた。
漫画を読んでいた俺は内心うんざりしながら顔を上げた。
窓枠に足をかけたるはアルカイックスマイルを湛えたハンサムな男。服装は一般人らしく何の変哲もないが、人間にしては異常なほど立派な牙を持つ人外さんだ。男によると、ご苦労なことに普段は牙を隠しながら人間に紛れて生活しているらしい。裏を返すとそれを知るだけ俺と男の付き合いが長いというおぞましい事実しか浮き彫りにならないので、得どころか損ばかりである。
俺よか俺の幼馴染みの女の方が血の気は多いし絵になるし、ずっといいと思うんだが。そうぼやくと奴はこう言った。
「あなた方調停員になるには、まず十二分に健康であることと僕たちに怯えや恐怖や好奇心を持たないこと。安易に僕たちの存在を暴露しないこと。それと、必要以上に詮索を行わないことが求められます。あなたは僕たちに興味も持たないし、ほとんど何も聞かないし、言いふらしもしないでしょう?」
あなたが知りたいと仰有るのなら、僕はある程度の秘匿まで教えたって構わないんですけどね、と指折り丁寧に事例を挙げて無駄に笑顔を振り撒く男・古泉を気味悪がりながら、なるほど好奇心の塊のようなあの女には確かに無理だと仕事の転嫁を諦めた。
「で、どうせ今日の用事も血が欲しくなったってだけなんだろう?」
「だけ、などと軽んじられるのは心外ですね。僕たちにとっては死活問題に等しいですよ」
「あー、悪かった悪かった」
むくれる古泉をあしらい、デスクの上に投げ出されていたカッターナイフを手に取る。真新しいナイフの刃が部屋を映し出すが、そこに古泉の姿はない。
死体から復活するという流れは万国の吸血鬼のすべからくが共通らしく、魂が宿らないその体は鏡に映り込まないというのがおおよその見解のようだが、実際どのような仕組みなのかは当事者であるはずの古泉も首を傾げるという有り様だった。単に古泉が抜けているだけかもしれないが。
にしても、自分の指なり手なり、体のどことて傷つけるのはやはり勇気がいる。指を深くぶっすりやるのがいいのか、大きくも浅く手をすぱっとやるのがいいのか、どちらが痛みを長らえないかを真剣に考える中で、古泉は脱いだ靴を手にぶら下げて手持ち無沙汰に俺の英断を待っていた。
「そんなに警戒しないでも容易く人間は吸血鬼に転化したりしませんよ」
「今のところ吸血鬼が人間に転化したって報告はない。気づいたら人間辞めてましたじゃ遅いんだよ」
「だからそんなヘマしませんって」
何故か古泉は傷口から血を舐め取るのはお気に召さないようで、いつも直接牙を刺して血をすすることをねだる。古泉曰く味がだいぶ変わるらしいが、傷つけるのがカッターナイフか牙かというだけで俺にとってはさしたる違いはなく、できれば血は飲まずにそのまま丁重にお帰りいただくというのが個人的に望ましいが、仕事をしないと唯一の旨味である割高な手当てがつかないわけで、俺に血を吸われる以外の選択肢がないことにどうにもやりきれない思いでいっぱいだ。
「一ヶ月だ」
「はい?」
「一ヶ月先まで吸血をしないなら手を打ってやる」
「じゃあ首から吸っていいですよね」
「…何でそうなるんだ」
「一ヶ月食事を我慢しろというのなら、傷口から舐めるだけじゃ足りません。それなりの量が必要です」
心臓近くに噛みつくことができればいいんですけど、とこともなしに怖いことを言う古泉に俺は一瞬だけ躊躇った。言うまでもなく俺は吸血行為が好きでない。しかし背に腹は変えられない。躊躇は一瞬だけだった。
「明日も平日なんだから手加減しろよ」
「善処します」
しろよ手加減。
文句を言うを待たず、スウェットの首元を引っ張られて噛みつかれた。ガブッ!と耳元で鈍く醜い音がした。
「い……っぅ、あ」
歯は存外大きく、平たい。そんな異物が無理に押し込まれれば、多少は痛い。
根深く刺された歯は少し前後に動いて(傷を広げるな!)引き抜かれる。ぢゅるぢゅるちゅるちゅる滲み出る血が赤子のような幼稚な音を以って古泉に飲み込まれていく。急に頭から血の気が引いて目眩に堪えきれず目を閉じかけるが、俺は古泉を殴るためにもまだ力を投げ出すわけにはいかない。
いくらかして、古泉はようやく口を放した。情けない顔をして子供のように口の周りを血の色が移ったような赤い舌でぺろぺろやっていたが、ついには泣き出して一言。
「うう、不味いです…」
ごつん、
「ちょ、まっ…!いた!痛いです!」
がつん、
「え、む、無言でグー!?容赦なくグー!?」
「うるさい。黙れ。大人しく殴られていろ」
他の調停員がこの近くにいないんだから我慢しろ。飲むなら不味くても口に出すな。我慢できないほど不味いなら飲みに来るな。
あああああああ、腹立つ!
俺はまだ泣き顔おさまらない古泉を殴り続けた。
(080805)