鎖を握ってゆらゆら揺れる。それは遠い幼子の記憶だった。鉄錆臭くなるまでブランコを漕いだ手を、鼻に近付けて口を歪める。遠い遠い、過去である。
握って開いて。
院内で教授に捕まったとき、新八は自分の運の悪さを呪った。
にやりと嫌らしく笑う団塊世代だが、肩書きは腐っても教授である。一応非行もせず控え目に過ごしていた新八は、大学院に進むための許可が欲しくて大人受けするように演じていたのが裏目に出たなと少し後悔した。所詮足元を見た気の進まない行為だ、これくらいどうってことない。新八は目の前の紙の束を見て、そう思いたかった。
僕の講座受けた生徒に実施したテストの総計を、宜しく頼むよ。
新八の肩を叩いて彼はそう言った。ふざけんな。新八は笑顔を返す裏で罵った。
テストの総計を出すくらい、と侮るなかれ。確かに彼の受け持つ講座は少ないが、その総数を数えたら半端ない。1クラス40人前後のセットが4つ。しかし実際は欠課や問題の見限りが非常に多い。しかもコンピュータで出された総数と数が合わないことが稀にあり、そうなると生徒の答案とグラフを照合して訂正しなければならないという、恐ろしく手間のかかるものなのだ。
新八は不用の紙を机から引き出し、ボールペンと訂正用の赤ペンを出してため息を吐いた。
「あー、と、一番の正解は4っと・・・」
大学の勃発的な試験は大抵4つから選択するものである。グラフには正答者数しか載っていないが、各々に何人が答えたなどを記録する。良い問題は各選択に回答者が均等配分されるものらしいのだが、今まで新八はそんな問題にお目見えしたことがない。
「あ、この人もう切り捨ててる。早いなー」
「本当にな。最近の奴ァ根性なくていけねィや」
新八はボールペンを持った手を止めた。ひょいと前を見ると、馴染みの顔があった。
「・・・沖田さん、ここ、僕の部屋なんだけど」
「一応ノックはしたぜィ?返事がなかったから覗いたらちゃんと居るし。居留守してやがんのかって鼻フックかけようとしたらなんかしてたからよゥ」
「ああ、うん。ノックしてくれたわけね。不穏な単語聞こえたけど。ごめんちょっと厄介事押し付けられちゃってさ」
ふぅんと気のない返事で沖田は向かいにかける。
新八は寮に住んでいる。そして沖田も同じ寮生だ。講座が被って相席したときに知り合った。初対面のときから散々沖田にからかわれた新八だが、紆余曲折を経て何故か友達以上恋人未満なこじれた関係を築きあげていた。そもそも同性で恋人未満って何と首を傾げたいのだけれど、辛抱して45度までに押さえている。
「手伝ってやろうかィ?」
「うん・・・は、え?」
「だから、手伝ってやろうかィって」
「嗚呼、うん。無償なら有り難くやって貰おうかな」
「何言ってんでィ。俺はいつでも親切だぜィ」
思い出を掘り起こして振り返ってみる。ないないないない。そんな記憶どこにもない。いつも見返りと称して何かかっさらっていった。
しかし新八は、気まぐれな沖田の気が変わらない内にと持っていたボールペンとグラフと答案を沖田に渡した。
「これで答案間違ってるところを訂正して、集計して下さい」
「・・・」
「グラフの数が違ってたら、一から数え直して下さいね」
「・・・おう」
新八はその間にパソコンのエクセルを開いてログを作り始めた。
これもまた手間のかかることで、その総数がどんな数の乗算になるのかを出すためだが、如何せん人の能力値を超えた範囲の計算力が必要になるため作業は機械頼みだ。畜生、目が悪くなるよとぼやいてはみても、教授は新八の人柄を『断ることのできない都合の良い人間』としているようである。自らがそう仕向けたとはいえ、迷惑千万だ。
「新八はいつもこんなことしてんのかィ?」
「いつもってわけじゃないけど・・・ま、頼まれることは多いね」
「断らねぇのかィ?」
「逆らえないもん」
「健気なこって」
けなされているのか誉められているのか、沖田は判別のつかない賛辞を贈った。
バーにログの計算式を入力する。LOG(A5・・・) 新八は眼鏡をずりあげた。
「・・・これ面倒くせぇな・・・」
「でしょ?一人でやるともっと大変!」
「頼れよ誰かに」
「『例えば俺とか』?」
沖田のバツの悪そうな顔を見て、新八は噴き出した。
「沖田さん講座寝てても試験の点数だけは良いよね」
「人のテストの結果勝手に見やがったなこの野郎」
「頼まれただけだよ」
何食わぬ顔で言う。沖田は不満そうな顔をしていたが、ぱらりと紙を捲ってその顔を歪めた。
「・・・多くねィかィ?」
「ええ。4クラスだから」
「これを数えろと」
「慣れれば楽ッスよ」
「・・・割に合わねぇ」
そらきた。
新八はパソコンの画面から少し目を放して沖田を盗み見る。ボールペンの端をくわえて(ちょっとそれ僕のなんだけどと新八は言いそうになった)紙を詰まらなさそうに見ている彼は、頭の中で新八にしてやろうと思っている悪戯を考え込んでいるに違いない。選択を早まったかなと新八はちょっとだけ後悔した。
「・・・なあ」
「何ですか」
「これ終わったら何かくれィ」
「何をですか?昼食くらいなら奢っても構いませんけど」
「ん、んー・・・昼飯は良いや」
終わるまでには決めらァと、沖田は紙に向き合った。相も変わらず気まぐれな沖田に、新八はため息を吐いてパソコンのキーを叩く。どうか無理難題を言われないようにと祈るばかりだ。
かりかりと、ボールペンが紙をひっ掻く音がする。沖田は容赦なく紙にペケを付け足した。
「俺らんときよりムズくね?」
「さあ・・・僕いつも確認する余裕ないし・・・」
「要領悪いねィ」
「うるさいな。終わったの?」
ひらひらと手を振られる。まだのようだ。ならば無駄口叩くよりも先に手を進めろと新八は思うのだが、言ったところで所詮沖田は新八の言うことを聞きはしないだろう。何せ彼は最上級の気まぐれ気質である。
「ところで」
「何なのさ、もう」
苛々し始めた新八に怯むことなく沖田は言う。嗚呼憎たらしい。
「貰うモン今の内に貰って良いかィ?」
「はあ、ものとか?」
「ん、こっち」
沖田は新八の手を取り、指一本丸々口に含んだ。新八の口がすっとんきょうな声を上げる。
「痛い!痛い沖田さん!」
「あふぁれふやなひやい」
「あ、ちょっと、骨がごりごり言ってるって!食い千切る気かアンタ!」
前歯で犬歯で奥歯で、一頻り新八の指を噛んだ沖田は漸く口を放した。血こそ出てはこなかったものの、指にはくっきり歯形が残されている。薄皮一枚で、免れたといった様子だ。唾液でべとつく指を、顔しかめながら悲しげに見た新八は、沖田をきつく睨めつけた。沖田はまるで動じていない。
「・・・お腹空いてるんなら、夜食わけてあげるよ」
「腹なんか減ってねぇよ」
「じゃあ僕の指に食い付かなくても良いじゃないか!」
「だって」
子供の言い訳のようにすねてみせる沖田に、新八は恨めしげな視線を送った。
「一部でも欲しかったんでィ」
「・・・全然意味がわかんないんだけど」
「良いさ、いつか解らしてやらァ」
憮然とした気持ちで、新八は作業に戻った沖田を見た。