新八が引っ越してから幾年経つだろう。私は指を折って数えてみた。最後に会ったのは大学一年の夏。もうかれこれ4年会ってない。
今は言語表現っていう学部に居るんだよと、やはり自分より年下の人間に言い聞かせるような気に食わない物言いだったが、変わらず穏やかな物腰に思わず安堵のため息が出た。教師にはならないのと訊いたら、僕には向いてないと首を振られた。ごめんねと謝られても、今の私はあの頃のように衝動だけで動いたりしない。新八が向いてないと言って目指さないのなら、それも良いと思う(ただ、私は決して新八が教師に向いてないとは思わないけれど)。
目の前のカフェオレを眺める。昔はこれでも苦いと感じ、飲むのを極力避けてみたが一度飲んでみればなんてこと無い、ただのほろ苦い飲料だ。
私は今、当たり障りの無い友達と喫茶店に居る。大学で出来た友達だ。当たり障りの無い会話をして、当たり障りの無い笑みを浮かべ、今のこの現状を彼が見たらどのように反応するだろうか。楽しくて、軽い笑い声を立てた。何か良いことでもあったのと、友達が私を覗き込む。何でも無いと言おうとして、私は氷ついた。
あ い つ 。
二度と会うことは無いと思っていた、高校時代からの宿敵。見目だけがやかましいくらい綺麗な癖して腹の中身は酷く汚れている。私の、大嫌いな奴だった。
そいつは私と目があったと悟りにんまり笑って指先だけで店を出ろと言ってきた。友達の内、勘の鋭い人間は私の見つめる先を汲み取り、したり顔でしきりに頷いていた(勘の鋭いって言うか、完璧な間違いも甚だしい!誰があんな煩わしいのと!)。


「……」


口の中でぶっ殺してやると何度も言い乍ら自分の分の勘定をチェック柄の可愛らしいテーブルに叩き付け、私は自分の肉が削がれるのではないかと思う程の速さで店を出た。


「おいおい、おめぇいくつだ?全力疾走なんて今時小学生すらやらねぇぜ?」
「誰のせいと思ってるアルかコラァァア!」


喫茶店から覗く興味の視線に居心地を悪くし、彼の服を乱暴に掴んで場所を無理矢理変える。何でィ俺は別に人の目なんて気にしねぇぜィと後ろから聞こえるが、当然の如く無視。誰が好んでお前みたいな性悪なんかと痴情のもつれ的なことをしなければならないのだ。願い下げである。ドント タッチ ミー!(触らないで!)である。


「何の用アル」
「喫茶店に入ってたおめぇと違って俺ァ腹減ってんでィ。どっか食いに行きてぇや。おめぇには奢らねぇぞ」
「要件を言えよこのスカポンタン!」


スカポンタンなんて初めて言った。こういう昔からある罵倒は意味がわからないものが多いと思う。新八なら知ってるかなと思って、酷く悲しくなった。


「…とりあえず、店入ろうぜ」


いつもの奴(名前なんかで呼んでやるか)らしく無く、くたびれた感じだった。そういえば、こいつは進学を選ばなかったそうだ。就職して疲れたか、女の相手をして疲れたか、まあ私には関係無い。どこぞで廃れちまえ。


「…奢りなら考えてやるアル」
「だから奢らねぇよ。俺だっていつでも金があるわけじゃねぇんでィ」


その言葉に、しがない学生でありバイトでしか稼げない私の血管など、いとも簡単に切れた。同い年の癖に、何を年長ぶっているのだろうか、こいつは。
同年代の子達に比べて私は背が低く、170もあるこいつと並ぶとそれが顕著に現れる。街中を歩けば十中八九人を振り返らせる容姿をしているこのスカポンタンは、何年経っても老を感じさせない。目立たない薄い髭は、男として屈辱的だろう。ザマァミロ。
奴はうっとうしげに、入った店内を見渡す。休日だからか、はたまた昼時だからか、甲高い声が時折聞こえる。私は気にならないが彼は違うようだ。憎々しげのような渋面を顔に張り付けて、奴は目の前を走り去る子供を見送る。親も店員も手がつけられないのだろうか。
極力子供から離れた席に座り、適当な軽食を頼む。ウェイターの女の子がこいつに色目を使っていたことにへどが出るような気がした。どこが良いのか。私は彼のラフな格好を見た。


「何の用アル」
「特に用は無いんだけどよ」


腹立たしさが限界まできりきり上がる。これ以上こいつに何か腹立つことを言われたら私は久しぶりに暴れてしまうかもしれない。新八にたしなめられていなければ、疾うにキレている。………


「新八…」


小さな声で言ったつもりだったが、こいつには聞こえたらしい。うんざりしたように顔をしかめ、けれど目だけがやけに寂しそうだった。こいつは私と同じく、新八を好いている。全くもって腹立たしいことこの上無い。こんな奴が、新八を好きになるなんて。


「…今日は、これを渡しにきただけでィ」


彼奴は自分の荷物の中から紙袋を出した。本屋の包装紙のような茶色の袋に包まれたそれは、やはり本屋で買われた本のように長方形をしている。何だこれはと目の前のこいつを見ると、本でィと返ってきた。私が本なんか読むと思うのか。喧嘩を売ってるなら買うアルと睨み上げると彼奴は、じゃあ俺が貰って良いかィ?とにやんと笑った。自分に宛てられたものを人にかっさらわれるのも癪で、私は急いで包装紙を解いた。中から出てきたのは小学生用の教科書だった。舐めてんのかと再三文句を言おうとしたところに奴の手が伸びて、ぱらぱらと勝手にページをめくる。ぴたりとその手が止まったところを見て、私は呆気に取られた。
小学生らしくほとんどを平仮名で埋め尽されている中で、作者だけが漢字だった。私達が知っている漢字。私達だけが知り得る名前と人。


『志村新八』


「何で、こんなのがあるネ」
「…別に。ちょっと授業で使っただけでィ」
「授業…?」


彼奴は、沖田はため息を吐いてテーブルに突っ伏した。骨張った肩がテーブルの端からはみだす。


「一応、実習期間終わったけどよ」
「お前、大学」


行ったぜィと、顔を上げないまま小さく声を出す彼奴。私は新八と違ってちょくちょくこいつと顔を突き合わせた。大学に行ったなんて、教育実習に行ったなんて、そんな様子はなかった。


「…どういう風の吹き回しネ」
「……」


奴は躊躇っているようだ。視線を一頻り泳がせた後、ゆっくりその目が私を捉えた。私は彼らしからぬ遠慮を見せられたようで腹が立った(今日は腹を立てっぱなしだ)。気を遣われているという自覚が、酷く私をさいなんだ。


「気持ち悪いんだヨ。お前は女アルか」
「うるせぇ。新八…志村が、」
「お前の口から新八の名前なんて出さないでヨ!」


こいつの口から新八関係のことが出てきたときからぼやけた視界だったが、私は遂に耐えきれず涙を溢した。堰を切ったようにどんどん涙が目から溢れ、頬骨からぽたぽたと落ちる。顎を伝う涙を拭うことも横を通る子供やウェイターの不思議そうな顔にも構わずに、私は奴を睨んだ。彼らにどんな経緯があったか興味が無いとは言わないが、彼らの関係がまだ継続していることをひけらかされるようなことを言われるのは我慢ならなかった。まだ新八を諦めきれていない私に、例え彼と同性とは言え恋敵にそれを主張されるのは正直辛い。それを知ってこいつは。
女が泣くのを見慣れているのか、罪悪感の欠片も見せず動揺しないこいつは冷ややかに私を見て、まるで中断されなかったように静かに続ける。


「志村が、教師になれなかったから、せめてお前にってよ」


苦しげに奴は顔を歪め、私を憎々しげに見た。酷く私は焦燥感に駈られた。焦燥し、狼狽し、後ろめたかった。何故そう感じたのか知れないが、私は目の前の私を睨むこの男がとても哀れに見える。
教師を志したのは、彼の私への断罪と懺悔(彼は無駄に律儀な人間だった)の代わりを果たそうとでもしたのだろうか。


「何でお前なんでィ。何でお前なんかが新八の気にかけられるんでィ。不公平だろィ?俺が彼奴に気ィあるのを知って、なのに気にかけられるのはお前ときたもんだ。不公平じゃねぇかィ?」


私はナプキンで涙を拭った。斑模様になったナプキンを脇へ避けて、まだ涙の跡が残るテーブルクロスに目を落とした。
私にしてみればこいつの言い分は嫉妬にまみれた怨み言なのだけれど、彼を好いているこいつとしては認められて然るべき主張なのだろう。つい先程に似たようなことをした私は黙ってこいつの主張とやらに耳を傾ける義務がある。


「いつもそうだ。女だからとかそういう理由で優先されるのはお前ばっか。俺ァ二の次三の次でィ。これくれぇの文句、愚痴ってもバチを当てる程神様は心が狭くねぇだろィ?」

B 私は神では無いから、存在するか不確定なものの度量なんて知ったことでは無い。
しかし聞き捨てならなかった。女だからと数から省かれたのはいつも私だったというのに、男同士でしか解り合えないことだってあるだろうに。


「『神楽ちゃんは、そそっかしいから』だと。ふん、随分緩く見られたみたいじゃねぇか。特権をさぞかし有効利用したんだろうな?そそっかしい神楽さんよぅ」
「自分のことを棚に上げてなんて言い草ネ。プールも旅行の部屋も同じの癖に、自分だけ不公平だって思うなヨ」


冷水の入ったコップをぎゅっと握る。コップの掻いた汗が掌にじんと染みる。


「私新八好きヨ。お前にも負けないくらいで、これからもずっと好きヨ」
「何勝手を吐かしやがるんでィ。お前なんか新八の相手にもされてない癖に」


罵倒し合い、少しいつもの調子が戻ってくる。睨み上げると彼奴もこちらを睨みつけていた。瞬きすら忘れて睨んでいると、目が乾いて涙が滲み出た。
私もこいつも何よりもお互いが嫌いだ。そして同じように、新八のことが大好きなのだ。彼に届くことは多分ずっと後で、もしかしたらもう無いのかもしれないけれど。


「こんな美男美女に好かれて、ホント新八は勿体無いアル」
「全くでィ」


私はすねたように言う彼奴に思わず笑った。その拍子に、涙がまた一粒頬を滑り落ちた。






そうして、夢は夢のまま。







(060920)
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