苟の
月ぞ 愁いを
寄せければ
彼のなよ竹の
人 泣きたまふ




何時かの戯作




夜の帳がまるでここ一帯を包み込んだような、深い底。
新八は漸く眠った子供の世話を終え、一人ぽつねんと帰路に付いていた。時折強い風が新八の背を叩く。
新八ははふっと小さく息を吐き出した。
子供に懐かれるのは大いに結構。しかし如何せん加減を知らない神楽というあの子供は、今日も元気に新八や銀時の首を絞めて下さった。周りに同族の子供がいなかったせいか、人と触れ合うことに不慣れな彼女は、どうやらぎくしゃくして加減が出来ないらしかった。
そんな寂しい子供を、お人好しと自他共に認める新八が邪険に払えるわけがない。
素直にしていれば、とても良い子なのになぁと新八は肩を少し落とした。これからの教育方針によってそれが変わるなんて、新八は甘んじて考えたりはしなかった。
神楽は銀時といる時間の方が多い上に、あの男が神楽に教えることと言えば必ずと言って良い程余計なことだった(主に、精神面での教育に於いてあの男は邪魔者以外の何物でもない)。
何で僕が母親みたいなことをと思春期真っ盛りな少年は言うが、今しがた件の子供をあやして寝かし付けてきたその背中は母親そのもののそれである。
風が、びゅうと吹いた。月が急速に雲の向こうへと消えた。不思議な月夜だった。
ふと、路地の向こうから足音が響いてきた。その存在を誇張するように、しかし町民が起きることのない程度の密やかさで。
新八は何故かそれが誰だかを知っていた。


「今晩和」


影がぴくりと動いたような気がした。否、そう見えただけだと新八は思った。
雲が風に流され、空が晴れる。幕が引いたかのように、辺りが徐々に月に明るく照らされて行った。それに釣られて彼の薄い髪色が濃い影を落とし乍ら現れた。瑞々しい、茶色に似た金。
沖田総悟その人は、新八が突如姿を見せたにも関わらずその顔色を一寸も変えなかった。何事もなかったように、新八が初めから居たことを知っていたかのように振り向く。


「…アンタは帰りですかィ?新一くん」


誰も彼も自分の名前を覚えちゃいない。覚えていたとしても目の前のこの人物は口にしないだろう。
自棄に穏やかな心内に新八自身が驚いた。


「僕の名前は新八ですよ」


おかしくなって笑いが口の端から溢れ落ちる。沖田が、こいつ頭打ったのではないかと怪訝そうに新八を見返したことが更に拍車を掛けた。
小さく小さく肩を揺らし、新八は尚も笑った。
やはり今日は不思議な月夜だった。


「……アンタはかぐや姫みたいな御仁だねィ」


かぐや姫。
何ともこの時分に分相応しく、新八に似合わない、それ。新八は首を傾いだ。


「かぐや姫?また突飛なことを言うもんですねぇ。僕は女の子じゃないですよ」


寧ろ沖田の方が女々しい顔立ちをしているのではないかと新八は思うのだが、己の顔立ちの女々しさに気付かないのは両者とも言えるだろう。
新八は空を仰いだ。後ろ暗さの含んだ重たい空気が空に澱んでいた。その真上に、ぽかりと小さな月が浮かんでいる。
届きそうな気がして(実際は届く筈がないのだけれど)、新八は月に向かって真っ直ぐ手を伸ばした。


「月が歪ですねぇ」


満月でも上弦でも下弦でもない、半端な月。それは歪にくねった満月のようにも見えた。鈍く、光る。
木枯らしが吹き上げる。木の葉が数枚、空に舞い上がった。あの木の葉のように舞い上がれば、月まで行けるだろうか。
新八はあまりの寒さに身震いした。


「寒いですねぇ、木枯らしですか?」


次々と上がっては墜ちてくる茶けた葉に、木の葉が禿げ落ちちゃいますねぇと新八は呟いた。沖田は何も言わなかった。唯新八と同じようにして月を見ていた。新八も、沖田が何かを言うとは思わなかったし、期待もしていなかった。彼からしてみれば新八はおかしなことをぶつぶつと呟く顔見知りだからだ。


「知ってますか?かぐや姫の成長が早いのは、竹の生命力の表れなんだそうですよ」


新八は続けた。唯独り言のような感覚で、聞こえるかわからない配慮のない声でぶつぶつと。
月はとても小さかった。けれど、その小ささに比例せずに金とも銀とも取れる光を撒き散らしていた。
頭上高くに月は昇っていく。
ふと、幼少の時分姉に聞いたかぐや姫の話を思い出した。
竹から産まれた幼女。養ってくれた家に裕福をもたらして、別れも満足に告げず、霧のように消え行った月の姫。


「別に、竹から産まれたり、実は月の住人だったり、そんな神々しい存在じゃあありませんよ僕は」


彼女のことを、発つ鳥跡を濁さず、というのだろう。唯残された者の遣りきれ無さが虚無感を掻き立てるだけで、想いを振り返して懐旧に胸を詰まらせるのが、唯一の濁りと言えよう。
姉が急に恋しくなった。早く顔が見たい。


「沖田さん、僕、帰ります」


泣きそうになり乍ら、沖田に笑いかける。空に伸ばしていた手は、感覚が乏しい。冷たくなった掌を摩り、新八は言った。
町民は寝静まっている。静けさが、静寂が、背後から襲ってくる。耳鳴りが頭痛を激しく訴えた。


「……、…………」


後ろから、沖田の声が聞こえた。存外その声がかすれていたことに驚いたが、残念乍ら何を言ったのかは言葉尻が風に持って行かれたせいで終に解らなかった。
新八は少しだけ満足していた。特に突出した鬼才の持ち主だと周りから囃し立てられる彼が、とても複雑な感情を抱いていることが判ったからだ(人間誰しもそういった感情に苛まれているのだけれど)。
あのかすれた声。僅かに新八を訝しむ、光の滲んだ瞳。彼はマネキンなんかではなかった。新八は何故か安堵した。
月を見上げた。雲が尾を引いて月から離れてゆく。その眩しさに、新八は目を細めた。
痛みのように渦巻く安堵。それは、いつのまにか消え失せた木枯らしが心に入り込んだようだった。
とある、名も知らない月夜のことだった。


木の葉ふり
やまずいそぐな
いそぐなよ


加藤楸邨