ぷつり、何かが切れる音がした。
いたみどめは何処
何かから拘束を解放されたかのような、または支えを失ったような感触の後に、新八は前のめりに倒れそうになった。どうしたんだろうと足元を見遣ると、なんと草鞋が無い。どこに遣ったのかと首を巡らせると、少し後方に鼻緒の切れた草鞋が置いてけぼりになっていた。珍しく新調した草鞋なのにと、新八は溜め息を吐いた。
鼻緒が切れたり、箸が折れたり茶碗が欠けたりするのは良くないことが起こる予兆だと昔から言われている。しかし天人の襲来とそれに伴う技術の向上など、近年著しく近代化が進むこのご時世、そんな古めかしい諺は疾うに廃れてしまった。信じる人間すら乏しく、新八自身も度々諺を軽んじる傾向がある。何せ生活が生活なものだから、利にならないものは切り捨てるというリアルでシビアな面を併せ持つ羽目になったのだ。要るものは腹に溜まるもの、金目のものだけ。
なので新八は壊れた草鞋を名残惜しげに見るだけで、空寒い思いはしなかったのだが。
「あーぁ、ついてないな。どうやて帰ろう」
取り敢えず壊れた草鞋を持って、気力で茶屋のところまで行き、茶屋の親父に笑われた後である。諺のことを確り脅かされ、豪快に笑い飛ばす親父は茶と団子を一串置いていった。サービスだとほざいていた。
新八は鼻先まで草鞋を持ち上げた。土踏まずの真横に括り付けられていた紐は見事に切れている。所々に汚れてはいるが、まだまだ使えたものだったのに。否、そんなことよりも。
「姉上になんて言い訳すれば良いんだ…」
新八も万事屋で働き始めたとはいえ、無収入に等しいあそこに期待できる賃金は無い。切り詰めないといけない生活は変わらず、鐚一文も無駄にはできない。だのに予想外の出費!新八は頭を抱えた。五体満足は怪しいが、せめて命は確保されたい。
兄ちゃん煮詰まってるねと奥から親父の明るい声が飛んでくる。こっちは死活問題だというのに呑気なものだ。通りを見る。目の前を沢山の人が闊歩している。赤い布が敷かれた椅子が、日光を球衆して生暖かい。こんなにも周りは平和なのに、新八の胸中は暗いままだった。
新八は再び溜め息を吐いた。
「団子屋で溜め息たァ無粋ですぜ。茶屋は市民がまったりする憩いの場でさァ。湿気た顔する場所じゃねぇ」
新八はほっといてくれと顔を上げ、ついでに今すぐ帰りたくなった。目の前にはにやりと底意地の悪い笑みを浮かべて警察の隊服を着た、沖田が立っていた。何やってんだと新八が見ている内に、沖田はぷっと何かを地面に吐き出す。ガムだった。
「…警察がそんなことして良いんですか?」
「気にすんな。どうせこの国にポイ捨て禁止の法律はねぇ」
「問題はモラルの方でしょ。人間性が…」
嗚呼この人にそんな甲斐性はなかった。
新八が遠い目でぼんやり見ると、あんまり見んなや恥ずかしいと、無表情に沖田は言った。どこが恥ずかしいんだこの能面めと新八は顔を逸らした。
「で、アンタは何やってんだィ?」
「嗚呼、草鞋の鼻緒が切れたんですよ。それで、どう帰ろうかと」
ふぅん、と沖田は新八の横にある草鞋を、勝手に団子に手を伸ばし乍ら見た。興味深げにそれを手に取り、切れた紐を摘まんでぷらぷらと揺する。
「止めて下さいよ。これ以上壊れたら直しようも無いじゃないですか」
「何だアンタ、これが壊れたからこんなところで立ち往生してんのかィ」
「そうですよ。新しいの買うお金無いですから」
今もこの先も。
沖田は新八に目を遣って、そしてまた草鞋をまじまじと見た。あんまり足をつけたものを上に持ってきてじろじろ見ないで欲しい。居心地の悪さに新八は身動ぎした。
「俺が新しいの買ってやろうかィ?」
「はい?」
新八は耳を疑った。
買う?新しい草鞋を?沖田さんが?僕に?
仕事内の土方だって彼のことをサド星の王子だとかズタボロに言う癖に(土方の、沖田への言い草によって沖田の気性は推して測るべし)。
どんな見返りを要求されるか戦々恐々とし乍ら新八は元気良く首を振った。
「何でィ、遠慮すんなや」
「い、いえ!そんな沖田さんに迷惑かけるようなことできませんよ!」
「とか何とか言い乍ら、実はアンタ、俺を怖がってんじゃねぇのかィ?」
新八は唇を噛んで直ぐに放した。侮辱された羞恥と、図星を簡単に悟られたことで新八の顔にさっと染色されたような赤みが走る。だから何だと挑発するように新八は沖田を見上げた。沖田はにやりと笑った。
「そうだねィ、じゃあここの団子を一串でどうだィ?」
怪訝そうに店を見返した新八は、何か注文するのかと期待している店の親父と視線をかち合わせた。気不味そうに愛想笑いを浮かべた店の親父に、同じく愛想笑いを返した新八は早く立ち去りたいと苦々しげに沖田を見た。
「何を頼みたいんですか?」
「みたらし」
「…………わかりました!」
歯噛みする思いで新八は財布をやけくそに取り出した。
「じゃあどうぞ!ついでに新しい草鞋も買ってきて下さい!」
身を切るような思いで新八は沖田に財布を押し遣った。本当は命綱の財布を渡すことさえ躊躇われる。
ところが沖田は何をおかしなことを言い出すんだこいつはという目をした。新八は何か外したのかと目を瞬かせた。
「な、何か?」
「馬鹿じゃねえ?アンタが居なきゃ草鞋のサイズがわかんねぇだろィ?」
あ、と新八は小さく呟いた。如何すればと左右に目を泳がせた新八に沖田は爆弾を落としてみせた。
「移動は俺の背中貸してやるからよ」
「はぁぁああ!?」
結局草鞋とは関係無いところにまで連れ回され、疲れ果てた新八が、草鞋を買うのにサイズなど紐で調節できるのだから必要無いと思い当たったのは、既に深夜を回った時刻、布団に入る寸前だった。
本当、碌なことが無い一日だった。