何の一つ覚えを代弁するかのような、毎回猛暑を訴えるニュース。それでも去年とはまるで違う。
打ち水逃げ水
蝉がじりじりと喚く夏の最中。少し湿気を孕んだじっとりした空気を恨めしく思い乍ら新八は洗濯物をぱんと叩いた。
今日の新八はご立腹だった。
今朝も甲斐甲斐しく万事屋へ出勤した新八を待っていたのは、神楽の小さな寝息でも定春の大きな巨体でも銀時の酒臭い匂いでもなかった。何の気配も無い室内を訝しげにぐるりと見回した新八はぽつんと置き去りにされた言伝を見つけた。
『海に行ってきます』
その紙切れを持ったままお登勢の家賃催促も有耶無耶に誤魔化し、自宅の家の引き戸を閉めて漸く新八は、自分を除いた二人と一匹が海という決して近くない場所へ遊びに行ったことを理解した。
怒鳴りたい気持ちが無いわけではない。しかしお妙に話して帰って来たところを姉弟で殴り込みに行き、暫く飯の作り置きもしないという飢餓地獄を味わわせるという決意に至ったため、至極穏やかな気持ちの上で家のことに打ち込めたのだった。
否、まだ苛々は少し残っているけれど。
溜まっていた洗濯物を畳み仕分けし、少し埃の被った其処彼処を徹底的に拭いた。
家事を姉には任せられない。料理は勿論だが、昼夜逆転の仕事に就いている姉に昼間の家事は酷だろう。負担は出来るだけ掛けたくないと新八は健気にもこうして家事のほとんどを担っている。
昼も中頃、活気付いて来たご近所に習ってそろそろ有り合せで昼食でも作ろうかと納戸を開けると、この暑い中ご苦労様、の真っ黒い長袖の服に身を包んだ、されど顔は涼しげである見知った顔があった。
「よぅ」
「あ、こんにちは沖田さん」
仕事中ですかといういつもの遣り取りを新八は控えた。
沖田は今刹那の時に戸を空けようとしていたのか、手を宙にさまよわせて敷居の前に立っていた。どう見ても通りすがりではない。
「暑中見舞いが真選組宛にたくさん来やしてねィ、皆馬鹿みてーに同じもん贈ってくるもんだから近藤さんがこれ、アンタの姉ちゃんに、と」
沖田の片手には箱が抱えられていた。
「…何ですかこれ」
「素麺」
この夏場にゃ丁度良いだろィと沖田は箱を揺すった。中で折れているに違いない。
「本当はアンタからあの女に渡して貰おうかと思ったんですがね、万事屋にはアンタどころか旦那もチャイナもいねぇ。で、直接持って来ようかと」
「ちょっと待って下さい。僕や姉上が不在だったら如何するつもりだったんですか?」
「…………」
「侵入するつもりだったのか。不法侵入するつもりだったのか」
「まさか、仮にも警察ですぜィ?」
「じゃあ先刻の空白は何だったんだぁぁぁああ!」
「…お茶目?」
「………、も、良い。わかりました。有難う御座います」
ジリ貧生活には例えお零れであろうと有り難い物資だ。新八は沖田から箱を受け取り、この素麺に合う添え物のレシピを考え乍ら新八は玄関を潜った。
「俺は茄子の煮物が食いてぇや」
「茄子ですか、あったかなぁ…って何でアンタ家に上がり込んでんのぉお!?」
「や、俺もまだ飯食ってねぇんで。丁度良いからここでゴチになろうかと…」
「アンタ善良な市民から食物吸い上げてどうすんだぁぁあ!」
ホントに警察!?と糾弾する新八の意に介さず沖田は縁側で食いてェとさっさと先を行ってしまった。ゴーイングマイウェイの沖田に新八は諦め、後でお金払って貰いますからねと御勝手で素麺の箱を開けた。見事に長い素麺が見当たらなかった。
「何でェ。素麺を短く刻むなんてアンタの脳味噌暑さでいかれちまったんですかィ?」
「文句あるなら食べなくて結構!ていうか箱振って素麺ぼきぼきに折ったのアンタじゃねぇかぁ!」
新八が怒鳴り散らしている間にも沖田は箸先で中指程の長さの素麺をずぞぞと啜っていた。
じりじりと蝉が鳴く。反響に反響を重ねて耳鳴りがした。
沖田は上着を脱いでベスト姿になっていた。白いシャツも肘辺り迄上げられている。生憎新八の家は扇風機しかない。その扇風機も、経費削減のためにとお妙の手によりどこかへ隠されてしまった(件の扇風機は、お妙の寝室で独占されている)。申し訳無さがじわじわ広がり、新八は心持肩身の狭い思いをした。
「ここ…僕の家なのに」
「なんか言ったかィ?」
「いいえっ!」
誤魔化すようにして新八は煮物の煮汁を仰いだ。
「この家西瓜ねぇの?」
「…何で昼食まで作らせて、その上口直しを用意するような歓迎っぷりを期待出来るのか、僕には貴方の考えることが解かりません」
理解出来ないという意味合いを込めた沖田の視線にジト目で返し、皮肉も雑ぜて放つが沖田は飄々として言った。
「風物詩じゃねぇか」
「わけわかりません」
「夏の風物詩っつったら西瓜に花火に祭りに海に…」
ぴくりと指先に力が入った。勿論沖田に取り合うつもりではなく、銀時らが砂浜を走り回って海を楽しんでいるのが容易に想像できてしまい再び腸が煮え繰り返るように熱くなったからだ。
「それにしても暑ぃな」
「あ、僕打ち水してきます」
大人しくしていると沖田に八つ当たりや弱音を吐きそうだった。
新八は備え付けの蛇口からホースを繋げ庭に撒いた。沖田はじっとその様子を見ていた。何故この人は堂々と居座っているのだろうかと新八は胡乱気に沖田を見たが、沖田がひらひらと手を振るとずくんと耳の裏が熱くなった。熱中症かなと額の汗を拭い、存外水が冷たかったので頭からじゃばじゃばと水を浴びる。足袋が濡れてがぼりと空気の抜ける音が気持ち悪かった。
「何やってんでィ」
「暑かったんですよ」
沖田はわざわざ天蓋に付けられていた古びた風鈴を外して手に持っていた。ちりんと冷涼な音色が響くが惜しむらくは沖田がそれを指で弄んでいたことだ。ちりんちりんと喧しいことこの上ない。
「ちょっと、それ後で付け直しといて下さいよ」
「アンタは祭りとか行かないんですかィ?」
「否、聞いてる?人の話聞いてる?」
「アンタこそ聞いとけよ」
「何この理不尽!」
沖田が風鈴を揺らす。
ちりりん。
「行くんですかィ?」
「行きたくても懐が寂しいですもん。行くに行けませんって」
「そりゃ不幸」
全くその気が無いように口を開く。沖田は新八に目もくれずに言った。新八は小銭ばかりの給料袋の中身が早くも乏しい様を思い出してそんな沖田には気づかない。
「大体今日だって銀さんも神楽ちゃんも黙って外出するし」
「何だアンタ、はぶられたんですかィ」
「哀しくなるから言わないで下さい」
新八は溜め息を吐いた。ホースから出る水は出具合の悪い水鉄砲のように緩々と出ている。
「じゃあ、一緒に行くかィ?祭り」
「へ?」
新八は沖田を見た。沖田は風鈴を突付いて遊んでいる。
沖田の性格は把握しているつもりだった。少なくとも、(例えぽっと出の)親切心で人を遊びに誘うような気性ではない筈だ。
「どういう風の吹き回しですか」
「別に他意は無い筈でさァ」
「無い筈ってところで既に怪しいです。大体僕、本当に生活切り詰めなきゃいけない程お金に困ってるんで」
「奢りって言ったらアンタは如何しやす?」
益々新八は当惑した。奢りは魅力的な言葉だ。だが左記に書いたように沖田はそんなお優しい性格とは到底言えない。
「……本当に、沖田さんの奢りなんですよね」
「勿論。こればかりは嘘言ってもしょうがねぇだろィ?」
「いつですか」
「盂蘭盆会」
「………わかりました」
沖田はにひと笑った。その笑みが神楽に似ていて、普段二人が喧嘩をするのは同族嫌悪に帰来するからかもしれないと新八は思った。二人は口を揃えて違うと言い張るのだろうけれど。
沖田は風鈴を慣らし乍ら庭先に出た。余計風に煽られて風鈴が鳴る。
「嘘吐いたら蝋燭垂らすぜィ」
「やっぱりSだよなアンタ」
新八は失笑した。沖田は風鈴をひょいと新八の頭に乗せる。
「今日のところの用事はそれだけでさァ。詳細が決まったら後日にまた来やす」
そのときは長い素麺を頼むぜ。
「もう作るのは嫌ですよ」
覗いた沖田の目は、嬉しそうな色を滲ませていた。