海に出た…
夜に冴ゆ銀
季節の変わり目は大抵強い風が吹く。春一番然り梅雨と共に吹く突風然り、木枯らし然り。その例に漏れず吹き付け、沖田は自身の首元を洗う冷たい風に肩をそびやかせた。糞冷てぇと悪態を吐き、畜生と憎々しげに街の軒並を睨んだ。
頭上高くに煌々と輝く月を仰ぐ。微妙に楕円の形を型どっている。暗さに慣れた目が、月明かりにくらんだ。
人様は概ね就寝に従じているようだ。皮肉なことに己は元気に巡回中。
明日は昼まで寝入ってやると心堅く思い、また、歩き出す。何処かの路地で猫が鳴いていた。
「今晩和」
二の腕辺りがぴくりと痙攣した。勿論、声をかけた張本人はそんなことを意図したわけではないだろう。
沖田はくるりと後ろを向いた。
影を背負ってしゃんと立っているのは、万事屋に勤めているという、眼鏡をかけた黒髪の少年だった。
天人が蔓延るこのご時世、少なくなったわけではないのに何故かその存在が稀薄に思われる、黒の色彩に沖田は目を細めた。
注視しなければ周りに紛れてしまうような、純粋な黒。彼の着ている白い服だけが闇にぼんやりと映えていた。溶け込んでいる彼の色に沖田は不快感を露にした。彼の黒を、闇が包み込み、覆い隠す。上衣と白い足袋が景色から弾かれていた。
「…アンタは帰りですかィ?新一くん」
「僕の名前は新八ですよ」
呆れたように、声が跳ね反ってきた。口元を彩る影が少し上向く。沖田の不躾な態度にもそう大して腹を立てているわけではないようだ(或いは諦めの境地に至っているのか)。声は弾み、軽い苦笑い。
ころころと転がっていくような調子の軽い心地好い声に、沖田はどうしてか溜め息を吐きたくなった。
「……アンタはかぐや姫みたいな御仁だねィ」
「かぐや姫?また突飛なことを言うもんですねぇ。僕は女の子じゃないですよ」
そんなこと見ればそうと知れる。彼の顔はそこまで女々しくはない。しかし幾分男らしくない仕草は同性にも見えない。
まぁいいかと彼は沖田と少し離れたまま、月に手をかざした。
「知ってますか?かぐや姫の成長が早いのは、竹の生命力の表れなんだそうですよ」
新八は沖田に目を向けはしなかった。手は、月に止まったまま。
その手は空気を掴み、何時しか月まで掴みそうなほど、真っ直ぐに月へ伸びている。
伸びて伸びて伸びて伸びて伸びて、いた。まるで竹のように。
「月が歪ですねぇ」
ふふ、と短く彼は笑った。言われて沖田も次いで空を見上げた。大分月は移動してしまっていた。あまりの空の高さに目眩がする。
風が、吹き荒む。はたはたと服がはためく。新八は漸く手を下ろした。月明かりに眼鏡のレンズが、弦が、光り走る。その表情は窺い知れることは叶わなかった。
「寒いですねぇ、木枯らしですか?」
木の葉が禿げ落ちちゃいますねとおかしなことを呟く彼は、やはり月に酔っているのだろうか。
「別に、竹から産まれたり、実は月の住人だったり、そんな神々しい存在じゃあありませんよ僕は」
ふと、新八は思い出したようにぽつりと言った。
勿論沖田もそんな大層なことを本気で思ったりはしていない。月に照らされているにも関わらず、今にも背後の闇に呑まれそうな存在の稀薄さが、時を持して月へ帰ってしまった彼のなよ竹の姫とどうしても被って錯覚するだけだ。そのことを只の言い訳にしている自身に、沖田は苛立った。
「沖田さん、僕、帰ります」
ゆるりと笑い、新八は言った。背後の闇がぞわりと広がった気がした。沖田の二の腕辺りがまたも痙攣した。彼の顔は相変わらず翳って見えない。
沖田は乾いてくっついた唇の皮を引き剥がすようにして口を開いた。ぴきと皮が破れて血の味が滲む。風が容赦なくその傷をなぶる。砂塵が足元を浚った。沖田は出てきた自分の声が存外かすれていることにぎくりとした。しかし憶尾に出さずに構わず続ける。
「嗚呼、さいなら」
それが、精一杯だった。
新八は一旦こちらに体を傾け頭を垂れ、ゆっくり歩き出した。もう、振り返らずに。
沖田は複雑な心境でそれを見送った。真っ直ぐな、しっかり自立した背中だった。
何とは言えないが、沖田は確信した。彼は立派に生臭い人間だった(否、自分とは別の場所に確立していると考えたのがおかしかったのだ)。何がかぐや姫、だ。
沖田は血の滲んだ唇に指を寄せた。
風は随分緩くなった。木枯らしは海に行ってしまったようだ。もう、帰って来ないだろう。
沖田もまた、現れた想いの淀みに浮かぶ泡沫に、らしくなくも戸惑っていた。押し遣られた前までの己を、取り返す等既に不可能だということに。
最後に見えた彼の顔は、意味もないのに至極穏やかだった。
沖田の足元に、木枯らしに置いて行かれた木の葉が一枚落ちてきた。
今夜は、名もない月夜が空に浮かんでいた。
海に出た
木枯らし帰る
ところなし
山口誓子