飛ぶように時間は過ぎ、季節は移り、巡り廻り、そして二人は道を歩き、




北改札口で降りる-third




ばたん、と扉を閉めた拍子に車が揺れる。車内に充満した、暖房で暖かくなった空気に触れ、ほ、と息を吐く。けれど息は白いままだ。差し出されたコンソメスープを受け取り軽く頭を下げた。熱い湯気が鼻を湿らす。口に含んだスープは、舌に軽い痛みを施して喉を下っていった。火傷したと小さく舌打ちする。


「どうしました?」
「…なんで店の駐車場空いてるのに路上駐車なんでィ」


下唇を尖らせて沖田は新八に抗議した。火傷した八つ当たりというわけではない。決して。
新八はきょとんとして、転じて真面目な顔になった。


「障害者用の駐車場には、停めない主義なんです」


白い枠線の真ん中には大きめに車椅子用の絵がある。別に良いじゃねぇかィと言うと新八は駄目ですと強く言った。


「困る人だって居るからああいうスペースができるんでしょ。沖田さんが中に居れば違法駐車のところも勧告で済むし」


ひりひり痛む火傷のせいにして沖田は黙った。意外に頑固な新八に何を言っても無駄だと諦めたのだ。
新八は買ってきた自分のコンソメスープを脇に置き、鍵を回した。エンジンが勢い良くかかる。小刻な震動で危なげに揺れる新八のカップを、沖田は自分の手に持った。
季節は既に初冬だ。沖田が志村新八という珍妙なこの男に出会って、彼此半年は経っている。友人という地位に甘んじて同性間の対人関係の拮抗を崩せずにいる沖田にとって、我慢の半年だった。衝動だけで生きてきた学生時代と違って落ち着きのスキルを身に付けた沖田は、いつも境界線を飛び越えられないでいる。漸くこの曖昧さに慣れてきて、傍に居られるだけで充分だと感じ始めた沖田へ、休日に温泉へ泊まりがけで行きませんかと誘ったのは新八の方だった。強く跳ねる心臓を無視して二つ返事で是と応えた沖田は、実は有給を使ってここにいる。今年何回目の有給だと笑われたが、上司は楽しんでこいと快く承諾した(あの人の場合仕事とかそんな上等な内情を熟知しているとは思えないのだが、くれるというなら有り難く貰うべきだ)。
どうせ行くなら露天風呂ですよねと新八の立てた妙な理屈のせいで、関東地区を飛び出して今は中部の山間部、山間の細いうねりくねった道路を車で進んでいた。
薄暗い雲が空を覆い、山の上にはうっすら雪が積もっている。車のガラスは微かに曇り、沖田がそこへ落書きをすると新八が指紋残っちゃうじゃないですかと怒った。やはりローンを作っただけあって車は大事にしているようだ。
沖田は新八のコンソメスープを飲んだ。運転して飲む機会があまりない新八のカップには、まだ並々とスープがたゆたっている。沖田のスープよりも暖かい。少し肌寒い空気に、続いてもう一口胃に流し込む。腹の底がぽかぽかした。新八がスープをねだると意地悪に、自分のスープを寄越した。新八は「温っ!」と叫んだ。
車を転がして数時間、漸く高速道路を抜け、民家や信号が点在する街中に入った。
予約した旅館は割合交通の弁に近いところにあり、そこそこ人気だった。今更気を遣うことなど必要無いので別部屋にしなかったと新八が車の中で教えてくれたのを聞いて、有難いのか何なのか、沖田は複雑な気分だった。


「こっちはもうかなり寒いですね」
「ん?ん、ん」
「沖田さん?」
「いや、何でもねぇ」


一気に寒くなった車内に気を取られ、沖田は分厚い上着を擦り合わせた。新八は存外けろりとしている。ハンドルを握る剥き出しの手は、赤くなっていたけれど。


「スープもすっかり冷たくなっちゃった」
「まだ飲んでなかったのかよ」


沖田は空になった新八のカップをくるくる回した。新八は不服そうに自分の(と信じている)カップを眺め、ぐいと飲み干した。同じく空になったカップをぽいと用意したごみ袋に投げ捨てる。


「ちと寝かしてくれィ」
「今からですかぁ!?ちょっとちょっと!もう着くんですけど!沖田さん!」
「おやすみ」


沖田は目が描かれた赤いアイマスクを被って視界を遮った。新八が、あああまたそんな腹立つアイマスクつけて!と叫ぶのを子守唄に、沖田はぐずぐずと惰眠を貪り始めた。




春のような暖かい気候の季節、沖田は桜を見て、笑っていた。隣には新八も笑っていて、なんだ夢の中の願望かと沖田はゆっくり歩くその二人を眺めていた。新八が口を開き沖田に何か言う。沖田は一瞬悲しそうに顔を歪めた後に、今まで以上の笑顔で新八に何か言っていた。願望にしては些か淋しそうな自分の顔に、沖田は「あ?」と言ってから首を傾げた。
なんじゃそら。
そして夢から覚めた。
アイマスクは取られている。沖田は布団の上から天井を見上げていた。頭にぶつけたら即死しそうな程大きな直方体に切られた木が入り組んでいる。はて、新八の車はいつの間にかこんな広い天井(しかも木造)になったのだろうか。


「有り得ねぇ」


どこの世界の車に、木造の天井を搭載したリクライニングベッド(けれど敷布団)の車があるのだ。きっとここは旅館なのだ。


「目ぇ覚めましたか」


新八が枕元で荷解きをしながら不遜げに沖田を見ていた。


「…あ?」
「あ、じゃないですよ。もうっ、寝ながら歩く人なんて初めて見たんですけど!沖田さん目ぇ閉じながらここまで歩いたんですよ!アイマスクのせいで従業員の方に笑われたんですから!」


恥ずかしいと叫んで新八は紅潮した顔を手で覆った。凄いな俺と茶化すのは、止めておいた。恥じ入った新八がどこか夢の中で幸せを振り撒いていた新八と重なったからだ。


「部屋に着いた途端倒れたりして、女将さんに笑われながら布団敷いてもらって、僕凄く居た堪れなかったんですから」
「…、あー、わりぃ。ちょっと続きが見てみたかった夢だったんでィ」
「…へぇ、どんな?」


新八は荷解きの手を休めて沖田の枕までずり寄ってきた。
沖田は言うべきか迷う。いくら何でも、目の前の人間と桜を眺めながら歩く夢なんて、おかしくないだろうか。けれど新八なら来年も沖田さんスポーツジム辞めてないんですねと笑って軽く流してくれそうだ。そう、期待する。


「…おめぇと、花見してた夢でィ」
「へぇ…花見。来年ですかね」


新八はほうと息を吐く。けれど空調の利いた和室では息は白くならない。花見かぁと憧憬を持った目で新八は呟く。


「…行くかィ?花見」
「はぇ?」
「来年よぅ、今度は俺の車で。会社の花見は休んで」
「沖田さん車と免許あるんですか?」
「それまでには取る。無理だったら原付で二人乗り」
新八は渋面を一瞬だけ作ったが、また僕が車運転しますから無理しないでくださいと笑った。沖田は手足の先が暖まるのを感じた。




雪が降ると一面綺麗に銀世界になるんですけれどねと女将は新八らの宿泊のタイミングの悪さを嘆いた。新八は良いんですと笑った。新八の言い分では、雪が降って露天風呂の価値がもっと上がったら予約で一杯になる、とのことだ。沖田には理解できない。
下着と浴衣を持って、新八はスリッパで床を打ち鳴らして小走りに先を行く。背中全面から風呂が楽しみという雰囲気を出す彼に沖田は苦笑を溢した。
さっさと服を脱いで新八は中の風呂に見向きもせず、外に出ていった。沖田は寒さに震えながら新八についていく。女将の言った通り、雪が積もってないせいか、景観は然程なかった。剥き出しの岩や茂みや土のある露天風呂はテレビなどで見る露天風呂のイメージとはかけ離れていて、言い様のない寂しさが漂っている。新八はそんな風呂にぽつねんと一人湯に浸っていた。景観とか、彼にはあまり関係ないようである。かなりの上機嫌で湯を楽しんでいた。


「…情緒はねぇのかィ」
「うるさいですねー、良いじゃないですか風情あって」


黒々とした土の見える露天風呂に入って、何が風情だ。沖田は新八を鼻で笑った。湯は熱かった。外気接するだけあって、中の風呂より熱めにしてあるようだ。胸元まで湯に浸って、詰めていた息をどっと吐く。親父臭いですねと笑った新八の頭を、恨めしげに湯に沈めた。沖田の鼻先をかすめたのは、小さな雪の塊だった。天上から牡丹雪が次々に降り注いでくる。手の下でもがく新八を忘れ、沖田は呆けたようにそれを見ていた。
一頻り新八と風呂で遊んで堪能して、湯冷めしない内に部屋へ戻る。まだ湿っぽい髪をお互い拭き合って、郷土料理の御膳が出てくるのを待つ。女将に兄弟ですかと尋ねられたとき、すかさず焦ったように友人ですと答えた新八に寂しさを感じた。隣同士で夕飯を食い、嫌いなものを新八に押し付け好きなものを新八から奪い、軽く口喧嘩をして笑った。階下の売店で缶ビールをしこたま買い込み、飲み明かした(新八が下戸であることを、沖田は初めて知った)。
微妙に放された布団の距離を悲しく思い、それを埋めるようにして新八に手を繋いで寝てくれるよう頼んだ(酔った勢いもあるけれど)。暗い部屋、新しい畳の匂いが立ち込める床に敷かれた布団の上で、填め殺しの窓を覆う障子に映る積雪の影を後ろ手に既に眠った新八の下唇を優しく噛んだ後で、やや沖田より高い温度の手を指先で必死に感じ取りながら眠った。
酷く満たされた気分に上塗りされた淋しさをひたすらに隠して。




「おはようございます」


朝から不機嫌な顔をした新八が、沖田に言った。やや鼻が赤い。起き抜けで頭が上手く回らない沖田は、てきぱきと荷造りをする新八の背中に、何怒ってんでィと投げつけると、新八は眼鏡で眼光を二割増にしながら再び沖田に言った。


「ええ、ええっ、怒りもしますよ!寝てる内に手はほどけると思ったんですがね、それどころかアンタがこっちに引き寄せるから布団からはみ出る始末ですよ!お陰でちょっと風邪気味です!」


ずび、と新八は鼻をすする。確かに少し鼻声だ。


「…熱は、ねぇのかィ?」
「うーん、僕自分じゃよくわからないんですけど。ありますか?熱」


手をあてた彼の額はあまり熱くなかった。ほ、と一息ついた沖田は、けれどさっさと着替えて売店へ急ぐ。暖かい飲み物を買って新八にやると、新八は目を丸くして沖田さんのせいじゃないのに!と言った。朝食を運んできた女将に風邪薬を要求し(新八はそんな大事ないですと首を振り続けたが)、女将は一年に一回は似たような客が来るよと笑って薬と水を持ってきた。


「大袈裟ですよ…」
「おめぇの場合大袈裟に見えねぇんでィ」


ばつが悪そうに新八は沖田を見て、黙って薬を飲んだ。ため息が溢れる、車内。旅館を後にした後、二人は海沿いの道に車を出した。休日は今日で終わり、また明日から仕事が始まる。どうせなら時間限界まで旅行を楽しみたいと新八が言ったのを沖田は気遣いながら承諾した。幸い発熱もなく、本人も本調子に戻ったようで、沖田が新八の代わりに運転するという荒業は回避できたわけだが。


「あ、沖田さん見て見て。カモメ」
「カモメ?」
白く大きな鳥がみゃあみゃあ鳴きながら、漁船の停まる漁港の上を揺れるように飛んでいた。


「つーかあれ、海猫じゃねぇかィ?」
「う、海猫?」
「鳴き声が猫っぽいから」
「嗚呼、沖田さん博識なんですね」


市場のお零れに預かりたいようである。沖田がそう言うと、図々しいですねと新八は笑った。
市民市場で魚を見る新八に、何で選りに選ってそれなんだと沖田は尋ねる。


「職場によく食べる人がいるから」
「男?」
「僕より年下の、変わった女の子です」


体の芯が一気に冷えた気がしたのを、沖田は無理矢理無視した。この辺に甘いものはないですかねと訊いてきた新八の問いに、沖田は答えることができなかった。
昨夜降った雪は、道に少し残っただけだった。まだ、積もる季節ではないそうだ。パーキングエリアでお菓子を買ってきた新八が、レジの人間と話してきたらしい。そのお菓子も、職場の上司にやるものだと言ったが、沖田はあまり触れることはなかった。ショックは一度だけで良い。
流石に疲れが見えるせいか、帰路でほとんど会話はなかった。ただ山合の凍結した道で滑りかけ二、三言葉を交しただけで、沖田は寝ているのかいないのかよくわからない状態で車に揺られていた。関東地区に入り、高速を降り、厚着が少し重くなったときに車は沖田の家の前で止まった。


「土産、買わなくて良かったんですか?」


沖田は苦笑した。


「今更んなこと言っても戻るこたァできねぇだろィ?会社の奴らにゃ俺の話が土産で十分でィ」


新八はそりゃないですよと笑った。長い口論の末、旅行でできたごみは沖田が引き取ることになった。後部座席に置いてある荷物の中から自分の荷物を取り出し、エンジンギアにかかっていた新八の手を握りたい欲に競り勝ち、車を降りる。家の鍵を開ける沖田に、新八は開け放った車窓から顔を出した。


「それじゃ、また。さよなら沖田さん」


さよなら。沖田も繰り返す筈だった。荷物を放り、鍵を落とし、門を開けて沖田は急いで新八のところまで戻った。
不思議そうに沖田を見返す新八のハンドルを握る手を自分の手で包んで一言、


「来年の花見は、頑張るから俺の車で行こうな」


新八は一瞬呆けた顔をして、楽しみにしてますと微笑んだ。
走り出すボクシィのナンバープレートを見ながら、沖田は笑った。それは夢に見た、悲しみに暮れた笑みだと自身が一番わかっていた。くん、と鼻をすする。鼻の奥がずきんと痛む、冬の冷たい空気。冬でもあまり澄んでいない空を沖田は見上げた。
今年も東京にも雪が落ちそうだ。




どんよりとした雲の隙間から見える、薄い碧と丹の、そっけないけれどなんだか暖かな色合いがとても好きでした。冷たい空気に首を目一杯すくめた人々の往来する道を、同じく首をすくめた格好で自転車を漕ぐのが好きでした。好きなものは、探せば結構見付かるもんなんです。けれど彼は、彼程好きな人は、いくら探しても、見付からないんです。