磯釣りに行って来たんです!はい、今日一緒にご飯食べるでしょ?その材料に。え、魚捌けないんですか?…適当に切って鍋に入れたら、駄目ですよね、やっぱ。
北改札口で降りる-second
一先ず、沖田の目下の目標は、早いところ時間が過ぎるように祈り願うことだ。そして目下の(いや、ここ数ヶ月の)目的は、できるだけここへ通うことだ。沖田は奥歯をぎりぎり鳴らしてきりきりとエアロバイクを漕いだ。近くを通り過ぎたおばちゃんが、沖田の形相に口をあんぐり開ける。神からニ物を与えられた人間は、得てしてどんな表情でも凄みが出るものだ。
沖田は必要以上の運動が嫌いだった。というか、警備員派遣会社なんて物騒なところに勤めているため、ちゃんと体は鍛えている。なのでスポーツジムのような趣味の延長でやるような運動は無駄なのだ。それなのに沖田はエアロバイクを成る丈無表情で漕いでいる。仕事仲間が見たら間抜けた顔をして瞬きをするに違いない。だって沖田はとても怠慢な、とても不真面目な人種だから。
うるせぇ。
沖田は一人ごちた。
ペダルはぐるぐる回り、エアロバイクはぎりぎりと耳障りな音を立てた。気が滅入る。
どうして可能な限りここへ通おうとしているのか、沖田はちゃんと理由を知っている。しかし理由があんまりなので沖田本人が当惑した。体と頭の調子が悪いとしか言い様が無い。わざわざたった一人に会いに来るなど明らかにおかしいだろう。
(方々の中にはたかがと思う方もいるだろう。方々を慮り、水を差すことを承知で註釈をいれることとする。スポーツジムなどの施設は月謝が馬鹿に高いのだ。月々7千円だなんて!)
喉下を過ぎれば暑さも忘れると言うが、暦の上では疾うに季節の変わり目を過ぎても喉下を下らない暑さは如何すれば良いのだ。沖田は出鱈目を吐かした先人に言ってやりたかった。いい加減なことを言うな。
健康美溢れるスタッフが、来る人行く人にお疲れ様でしたとこんにちはを繰り返す。時たま尋ねてくる初心者にマシンの説明を施すだけで、特に普通の接客業と何ら変わりない。
普通。これほど彼に似合う言葉があるだろうか。沖田はとある眼鏡を思い浮かべた。彼こそが、沖田をこのスポーツジムに来させる絶対的な影響力を持つ唯一の人間だった。名を志村新八と言う。
近代化社会の中で一風変わった名前のこの御仁は、ここのスタッフ様様である。しかし他のスタッフ同様の爽やかな健康美は溢れているわけではなく、どちらかというと日陰で育った大豆の芽(要はモヤシ)のような印象を受ける。眼鏡だし。本末転倒なことに新八は、新車を買ったローンを返すためにここでバイトをしているのだそうだ。つい先日飲みに行った際、そう彼が言ったのを沖田は忘れない。ボクシィを店の前に違法駐車した新八は不運なことに、警察にタイヤの空気を抜かれてしまったけれど。
何がどうなって自分が衆道に入ったのか沖田はわからないが、新八を可愛いと思った時点でもう望めない。ただ新八に相当入れ込んでしまっただけだ。
沖田は何人もの女性と付き合いの経験がある。しかしどれも積極的とはいえず、思えばそういうことに事欠いたから皆沖田から離れ、沖田はいろんな事柄に疎くなった。特に、相手と真剣に向き合う方法とか。
「くっそ」
八つ当たり気味にエアロバイクのペダルを漕ぐ。回転速度が70・80・90…
上がっていく数値は沖田の苛立ちを示しているようだ。最大値まで行くと暴走するオプション付き。要らない。
「ちょっとちょっと、そんなに速く漕いだら器具が壊れちゃうでしょ」
沖田は足を止めて後ろを振り返った。数値がどんどん下がる。回転が遅過ぎます!が点滅しても気にしない。沖田は久々に主人と対面した犬のような気持ちになった。尻尾があるのなら目一杯振っていたに違いない。新八は暫しフリーズした沖田を怪訝そうに見た。
「どうしたんですか?」
「あ、いいや、いいや。ただ久し振りだと思って」
「確かにそうですよね」
「今までどういう了見で顔出さなかったんでィ」
「あ、すみません。会社の仕事が立て込んでて」
「女々しく言い訳かィ」
沖田は新八の頬を抓る。本当に20代中頃なのか、やけに髭の無い顔は指に吸いつくようだった。痛い痛いと歪んだ顔ですら沖田には愛くるしく映った。沖田は自分が盲ているのを自覚して、戻れないも何も、常道に戻るつもりすら無いのだと苦笑した。
寒気は一気に押し寄せる。沖田は緩慢な動きになった指先を見乍ら思った。まだ吐息は白くないが肺を収縮させるような空気の冷たさと、夏より薄くなった空の色と濃厚な闇の侵蝕の速さは最早冬の到来を感じさせる。
はっ、と短く息を吐き出すと、隣に居る新八が不思議そうな顔をした。
「本当に良かったんですか?沖田さん」
「そりゃこっちの台詞でィ。別に今日じゃなくても良かったのに、飯に呼ばれて」
「構いませんよ。姉さんは夜遅いし、僕に気兼ねする良い性格じゃないでしょ?」
うるせぇと沖田は再三新八の頬を抓った。
買い物を済ませ、プラットホームに立って電車を待つ。
あれから新八は駐禁の罰金刑を恐れて車で来なくなった。路上駐車をしなければ良い話なのだが、自身が無いのか新八はそれを良しとしなかった。沖田としては、新八の気配の名残の多く残る乗り心地の良いあの車にもう一度乗ってみたいところなのだが、持ってきていないものは仕方無い。大人しく風に吹かれている。
学生の下校時間でも会社の帰宅時間でもない中途半端な時刻の現在、プラットホームに人気は殆ど無かった。物悲しさが漂うレトロな雰囲気に呑まれて、沖田は防寒着に顔の半分を埋める。新八も買った荷物を脇へ避けて、骨ばかりがやたら目立つ手を擦ったりして暖めていた。指先が赤く変色した手は今の時季から霜焼けの酷そうな手をしている。沖田はニットの上着から手を出し、新八の手を握り自分のポケットに突っ込んだ。沖田の体温で些か暖かいそこに、新八は顔を綻ばせた。
「あったけぇだろィ」
「ええ、とても」
今は人目を憚らなくても良いからか、新八は然程嫌がることなく沖田に手を握らせたまましにていた。買い物袋ががさがさと風に揺れる。そんな様子の新八に、沖田は苦笑した。嫌われていないという自覚はあるものの、新八が同性をちゃんと恋愛対象として見るかは別問題だ。そして、沖田にとって大問題である。やたらと人目を気にする几帳面な新八は、男同士が人前で(あってもなくても)某かの異質なことをするのに果たして許容できるのだろうか。
考えるのを、沖田は止めた。新八の価値観を他人である沖田にわかる筈がない。理解を求めることも、強要も要らない。
「沖田さん?」
ポケットから手を出し、新八の眼鏡の弦にかける。新八はやはり不思議そうに、しかし大人しくしている。ポケットから新八の手は抜かれていない。寒いからか、はたまた別の真意か。
ぼやけて見えないでしょと頬を張らせる新八を無視して、沖田は無言で眼鏡をかけた。視界が一気に不明瞭になる。水の中に潜ったような雰囲気に沖田は目の奥がきゅうと縮まる錯覚を覚えた。今はお互いの境界を曖昧にしておきたい。
ぷあ、と耳障りな音をあげ電車がプラットホームに滑り込んで来た。新八は眼鏡返して下さいと言い乍ら、荷物を取るためにポケットから手を出して屈んだ。ポケットにぽかりと空いた空洞が、抜け落ちていった大切な何かの穴のような気がした。
六駅、徒歩二十分。覚悟はしていたが、当たり前に遠い。改札口を出た沖田は周囲のあまりの暗さに眩暈を感じた。眼前に林立するビルの窓明かりがちかちか瞬き、けれどそれだけの微細な光源が辺りを明るく照らせる筈もない。厚塗りを繰り返された町並みに何やら体感温度は頗る下がる。冷淡で、寂しい景色だった。
「道のりとしては真っ直ぐ進むだけなんですけどねー、分かれ道が多くてどこの道が真っ直ぐかよくわからないんですよ」
「…へぇ」
意味が無いのではないのか、それは。
新八は勿論率先して歩いた。沖田は新八の背中を見て、いつの間にか民家が目立って来た町並みを見て、排気口から吐き出される家々の夕食の匂いを吸い、空腹の胃が刺激され、家族って良いなと思った。腹が減った。取り敢えず、飯だ。
新八の言った通り、真っ直ぐきたつもりが気がつけばどこにでも敷設されている家々を縫うような細い公道になっていた。寧ろこちらが横道に逸れたのではないかと思う。しかし昇り始めた月の位置はあまり変わっていない。なのに駅前の道幅と明らかに違う。真っ直ぐ来た筈だけれど。不思議な街だ。オレンジ色と白の蛍光灯が黒い道路に鮮やかなボーダーを作る。車通りはない。そこそこ大きい公園にも、人っ子一人、あるいは仔猫一匹もいない。不気味な街だ。子供でない沖田は恐怖を感じることはないが、居心地は悪い。冷たい空気は肌を刺せども、懐かしい風のちぐはぐさに沖田は首を傾げた。
夕食の匂いや懐旧で胸をくすぐる風景、そして前を行く新八の背中に沖田はこんな孤独感の漂う街で安堵するのだった。
「恥ずかしながら我が家です」
何が恥ずかしいのかわからないが、新八がへらりと笑って指差したのは一軒家だった。暗くて色はよくわからないが極々普通の家である。見れば隣接する家も似たようなデザインで、成る程沖田はここらへんが住宅街だと知る。駅前に然程苦無く通づる道だというのにあまり栄えないらしい。閑静な、質素な住宅街だった。
「お客さん来るのって久し振りなんです」
「へぇ」
沖田は何と言って良いか、わからなかった。新八の不憫さを哀れめば良いのか、しかし嬉しそうな彼に水を差すのは流石に偲びない。曖昧に茶を濁した沖田に気付かず新八は、勝手に扉を開け無理矢理沖田を引っ張り込んだ。控えめで慮る行動が目に付く新八には大変珍しいことである。
「沖田さん嫌いなものはありますか?」
「…ごぼうとしらたき。あのぱさぱさ感と苦味はどうも苦手でィ」
「わかりました。鍋は実は好きなものだけ選り分けて食べるでしょ?」
「…………」
図星である。
沖田は会社の飲み会でこそこそと嫌いなものを取り除いていたことを思い出し、渋面を作った。好き嫌いなく食べなきゃ駄目ですよと笑う新八に言い返す気力もない上、分が悪い。新八は好き嫌いが無さそうだ。
新八が作った鍋(しかしごぼうとしらたき抜き)を平らげ、新八が好きだと勧めたCDを聞き(沖田は隣で聞きながら泣く新八を初めて好きになれないと思った)、今度は沖田の好きなCDを勧め新八が興味深そうに頷き、夜は更けた。
何杯目かの珈琲を飲んだところではたと気付く。新八はとても疲れている筈だ。日中仕事をし、スポーツジムへバイトに行き、そして沖田を現在進行形でもてなしているのだ。疲れてないわけない。現に新八は瞬きを繰り返し珈琲を何度も口に運ぶ。眠いのだろう。話し続けて眠気の引いた沖田と違い、新八は今や聞き手に回っている。眠くないと言っているが当然嘘っぱちであろう、新八はやはり人を慮る。沖田は名残惜しく思いながら苦笑した。
「んじゃ、俺ァ帰るぜィ」
「え、え?」
「俺ァ明日も早いんでィ。そろそろ帰らねぇと明日仕事中に寝ることになる」
勿論沖田はエスケープと称して居眠りをすることは度々ある。しかしそんなことを新八が知るはずもない。真面目に仕事をする新八はエスケープなんて言葉も知らないに違いない。今は馬鹿正直に話すつもりもないが、明日新八が仕事中に倒れたりしたら、それは半分以上自分の責任になると沖田が思った。
新八は聞いているんだか聞いていないんだか、いまいち現実味のないふわふわした顔で沖田を見ていた。
「それじゃまた今度」
沖田は立ち上がり玄関まで歩く。新八はその後ろをふらふらし乍らついてくる。すみませんお構いも無しにとかゴニョゴニョ聞こえた。
外に出ると冷たい空気が纏わりつき、防寒着の前を閉めざるを得なかった。微かに電車の走る音が向こうから流れてくる。新八は部屋着のまま沖田の横に並んだ。
「…何でお前まで来るんでィ?」
「だって沖田さん初めてここに来たから道わからないと思って」
「道案内なんて要らねぇよ。お前は顔洗ってとっとと寝ろ」
「はぁ…」
新八は、やはりぱっとしない顔で言った。相当眠いようである。夢にずぶずぶ引き込まれている新八の頭をくしゃくしゃに掻き混ぜて、沖田は(恐らく)元来た道を引き返し始めたのだった。
元来沖田は独り善がりである。顔の作りがそこそこ良かったので恋人志望は結構な数に昇る。沖田の手を煩わせまいと挙って世話を焼くのだから、沖田は相手を気遣うこともなかった。気遣うことを忘れていた。
新八の疲れを気遣ったのは、他人を気遣ったのは、思えば初めてに近い経験ではないか。沖田は一人相槌を打った。そうだ、人を気遣ったことなんて数えるくらいしか無い。
こんなに寒いというのに、沖田はとても満たされた気分になっていた。