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行けぇボブ!お前の実力はそんなものじゃないだろう!




北改札口で降りる




どう見ても酔っ払いが吐いたゲロの染みを避け沖田は階段を降りた。スポーツバッグより少し小さめな鞄を肩にかけ、目的の電車が来るのを待つ。
ちょっと足を伸ばして雑踏に出掛けた先、勧誘にうっかり頷いてしまったスポーツジムの退会をするためだ。と、自分に言い聞かせて早数ヶ月。未だ退会を果たしていない。
どちらかと言えば怠慢寄りな人間の沖田が数ヶ月、件のスポーツジムに通い続けていることを知り合いが知れば腰を抜かすだろう。仕事すら真面目にせずともこなすことが可能な嫌味な人間たる所以か、真剣のしの字も知らないに違い無いと思っている同僚があまりにも多いためである。
知られたら自分に来る仕事が増えることを知っている沖田も、意外に持続性のある人柄を教えるような愚を犯す真似はしないが。
炭酸の抜けるような気の無い音とともに電車が揺れる。刹那足元が危なくなるが、次ぐ振動で沖田は車内を見る余裕が出来た。
窮屈そうに相席で座っているカップル、草履を脱ぎ掛け足先で揺らして遊んでいる腹の出た中年、冊子に何か書いている生え際の危ないおばさん。
皆暇なのだと沖田は思った。
がたごと、揺られ乍ら、沖田は車窓に差し込む陽射しに目を細めた。心地好い揺れと暖かい陽射しに睡魔が緩やかな波のように、ゆっくりと沖田を包む。
しょぼしょぼする目を瞬かせ、沖田は四駅先の駅で下車した。切符を吸い込んだ改札を抜け、少し膝への負担が増える急勾配になった階段を、前屈みになりかけ乍ら上る。上りきった沖田を迎えたのは、自動車から吐き出された排気ガスのむっと来る息苦しさだった。溜め込んだものを解放するかのように沖田は息をつく。
見上げた先には某有名会社のロゴが入った看板が。その上には林立して建設された高層ビルエトセトラエトセトラ。森の木々と見紛うコンクリートに沖田は無感情な目を向けた。
そこそこ歩き、沖田にとって見慣れた構内に入る。涼しい冷房の風がさらりと首元を撫で、それの気持ち良さに表情を弛め乍ら沖田はカウンターに居る受付に会員カードを提示した。にこやかにカードを受け取った受付の女性は、見目麗しい沖田にやや上目遣いでロッカーキーを渡した。


「彼奴、来てるかねィ」
「? 何か?」
「志村は今日居るかィ?」


志村とは、沖田がここで初めて知り合ったインストラクターのことだ。筋力トレーニングマシーンの説明に付き合せた沖田の彼への印象は眼鏡の一言に尽きる。主立った特徴は無く、気の良さげな笑みが一般人を象っているけれど陰の薄い人種だった。35回目の眼鏡という呼び掛けで漸く本名を教えていないと気づいたお間抜けさんである。アクの強い面子の多い職場に勤めている沖田には、幾分新鮮な人物だった。


「本日は通常勤務ですので居るかと」
「ふぅん、」


アルバイトに通常勤務も何も無いだろうと矛盾を笑い乍ら沖田は靴を入れた。
志村は下の名前が新八というそうだ。古風な名前だと、思う。
備え付けのテレビでやっていたプロレスに見入って、どうすれば良いかあぐねていた沖田に気づかなかった、真面目なのか不真面目なのかよくわからない眼鏡だった。しかし対応は懇切丁寧で、年下の癖に仕事に不真面目な沖田を窘めるような生意気さも見られたが、それだけ仕事に対してちゃんと考えている彼の真剣さの象徴かもしれない。沖田には鐚一文の得にもならないので、はっきり言ってしまえばどうでも良いのだが。
フロアに行っても志村は居なかった。
人に注意しておいて自分はサボタージュとは良い度胸だと、沖田は下に広がるプールが臨めるエアロバイクに腰掛けた。適当にペダルの重さを設定して沖田は遣る気もそこそこに緩々とペダルを漕いだ。
プールには、骨と皮しか無いような老人が水面から手を出して歩いていた。あれが一体どうして健康に良いか沖田には理解出来ない。それを言うならこのジムに来ている人間全て沖田には理解出来ない。大方趣味で来ている人間が大半だろうが、何故運動が楽しいのか皆目見当も付かない。大して解かろうともしないけれど。


「お?」


少し身を乗り出さないと見えないプールサイドの上に、痩せっぽっちの見慣れたちんくしゃが居た。ウォーターキャップを水に濡らしている。


「何でィ、今日はあっちかィ」


志村は監視員をしていた。老人が居れば手を引いてまでして尽くしてやっている。もしかして彼の天職は、こんな陳腐なスポーツジムのアルバイト員ではなく、ホームヘルパーかもしれない。
想像してみれば成る程、理想に適いイメージにも違和感は無い。もし彼がヘルパーの職業に就いたら、自分の身の回りの世話をやらせてやろうと見当違いなことを考えた。


「あれ、来てたんですか」


ロッカールームを突っ切ったところの、シャワー室である。
ちょうど向こうも終わったところなのか、まだ塩素臭い水の臭いを滴らせて扉のノブから手を放した。


「もう上がるのかィ?」
「いえ、バイトは」
「ふぅん、頑張るこって」
「沖田さんはもう、上がられるつもりですか?」


個室に肩甲骨だけが目立つ背中が消えてゆく。それに倣って沖田も隣の個室に入った。
ノズルを元あった場所からもっと高い場所に移動させ、蛇口を捻る。頭から、熱湯をひっ被った。


「あつ…」
「え?何か言いましたか?」
「何でもねぇよ」


設定温度も確認せずに、勢いに任せて出した熱湯で火傷をした等と知られたくない。火照った体をシャワーから吐き出される湯の所為にして、沖田は目を瞑った。


「もう、上がる気一杯ですね」


つっかかってくるような言い草に、おやと思う。
元来志村はこのように好戦的でも挑発的でも無い。不満があるのか、トーンの低い声が個室を揺るがして揺るがして沖田の耳に落ちて来た。


「志村」
「なんです?」


直ぐ様跳ね返ってきた返事に微苦笑を零す。律儀な奴だ。


「今日のバイトのシフト、何時までですかィ?」
「今日…ですか、そうですね、八時くらいですよ」
「飲みに行かねぇかィ?」
「でもまだ四時…」
「どうせ俺ァ今日一日一杯暇人営業なんでィ。ちょっとくれぇ付き合えや」


沈黙が水とともに流れる。沖田は外したかと思った。
ざぁざぁ、シャワーから湯が吐き出される。薄白い湯気が足元を漂う。


「…良いですよ」
「マジでかィ」
「何ですか」


志村が笑う空気が動く。そっちから言ってきた癖にと声が聞こえた。


「でも本当に良いんですか?四時間も沖田さん待たせちゃって。何か悪いですよ」
「往生際の悪い眼鏡だねィ。アンタ几帳面も良いけど将来禿げるぜィ」
「何それ。余計なお世話だっつーの」


くしゃくしゃと髪を洗う音がする。そうだここはシャワー室だ。
本来の目的をすっかり忘れていた沖田は失笑した。
目の前に陳列するボトルから適当に液体を出す。どっちで洗っても泡立つのだから変わりは無い。柑橘類の胸を空くような甘酸っぱい匂いがした。目を瞑る。


「嗚呼もうまた知らないローションが付いてる」


心底うんざりしたような声が小さく響く。


「潔癖症かィ?」
「違います。何のローションかわからないから触りたくないんです」


それを潔癖症というのだ。沖田は笑った。


「嗚呼もう、女じゃないんだから備え付けので良いと思いません?」
「さぁ、一概にはねィ」


目を瞑り乍ら蛇口を彼方此方捻る。シャワーから漸く出て来たのは冷水だった。









本屋程暇潰しに適した場所は無い。漫画は袋綴じしてあろうが、小説や雑誌は包装の仕様が無い。こんなもの中身が見えてこそのものだ。
二時間程時間を潰した後、目についた喫茶店で軽い食事を摂った。焦げ目の付いたサンドウィッチの最後を口に入れて、居酒屋で何を食おうかと考えた。ちょっと腹の具合が常識的では無い。
どこか苦いだけのオレンジジュースを飲み干し、水分でパンが膨らむのをゆっくり待った。
空は群青色だった。
今日でかなりを消費し、またこれからも消費しようとしている沖田は、財布を開いて瞬きをした。もっと持って来れば良かったかと思い、財布を尻ポケットに入れる(因みに沖田の収入は結構なものである)。
どうしよっかと重大さに然程重きを置かない軽さ呟くと、いつの間にかスポーツジムに戻っていた。帰巣本能かと一人笑い乍ら、従業員用の出口が開くのを待った。
あ、何かこれってデートを待ち侘びている彼女みたいじゃね?あれ、俺彼女?
こんなことを思い、何のためにスポーツジムに通い詰めているのか、果たして沖田はわからなくなってきた。何をこんな頑張っちゃってるのと他人行儀な冷たい台詞を脳味噌が吐く。


「でも楽しいんだよなぁ」


運動することが、ではなく。
ならば何が楽しいのかというと沖田自身も首を傾ぐ程曖昧なものだった。


「お待たせしました…沖田さん?」
「あ、おぅ。ちと早くねぇかィ?」
「ええ、あまりお待たせするのも悪いかと思って早めに上がらせて貰ったんです」


それは恐らく彼の仕事へ打ち込む姿勢を買われ赦されたのだろう。所謂日頃の行いという奴かと沖田は思った。
行きましょうかと柔らかく言う志村は無表情だった。
客と従業員が入り混じった駐車場を後にする。あ、と志村が足を止めた。


「ハーレーダビッドソンのバイク…」


憧憬にも羨望にも似た目で眺める志村に、沖田も釣られてそれを見る。
ごつい車体に黒塗りのボディ。志村がこのようなものを好むのは違和感があった。


「ありゃ高いですぜィ」
「ええ、部品の代換えも結構するでしょうしね…」


ふぅと悩ましげに溜め息を吐く志村に少しどきっとした。


「沖田さんは、どこか行きたいところでもありますか?」
「いんや、俺ァここの地理に疎いもんでねィ」


妙な動悸を暑さと空気の悪さの所為にして、任せやすと言うと、志村は、じゃあ僕が知ってる店に行きますかと言った。二つ返事で返す。
志村は簡素な荷物から車の鍵を出した。車があるなら別にバイクは要らないのではと、賢くも沖田は言わなかった。
ボクシィの窓の綺麗さに、こまめに洗浄していることが伺い知れる。几帳面さの良し悪しの基準がわからなくなった。


「まさかアンタが車に乗るとはねィ」
「似合いませんか?僕」
「や、似合う似合わないの問題じゃねぇだろィ」


車内も酷く綺麗だった。何故かティッシュがある。


「アンタ結構良い給金貰ってんだねィ。何でバイトなんかしてんでィ」
「これの借金を返すためです」
「…それ、本末転倒って言うんじゃねぇのか?」
「日本語って便利なようで不便ですよね」


強ち間違いでは無いので黙っておく。
へらりと笑った志村は車のハンドルを握った。ゆっくりアクセルを踏む足を見て、燃費が良いだろうなと勝手に思った。


「沖田さんってどんなところに御勤めしてるんですか?」
「んー…警備員派遣会社」
「格好良いですね」
「そういうアンタは?」
「契約社員です」


そろそろ更新しないと危ないんですけれどと言う志村からは危機感がまるで感じられない。
赤い提灯が軒先に吊るされている店が目に入った。志村はここですと言って車の鍵を抜いた。路上駐車だ。


「ここ、量が多くて易いから結構人気なんです」


得意げに言う志村を横目に、沖田はサンドウィッチで漸く膨らんで来た腹を撫でた。









「ちょっと沖田さん、帰り電車なんでしょう?そんなに飲んで大丈夫なんですか?」


覚醒した意識に志村の声がわんわん響いた。微酔にうっとりしていた沖田は身を起こす。かなりの時間が経っていたのだろう、店に客はほとんど居なかった。


「お酒弱いんだったら何で飲みに誘ったんですか」


志村は呆れて沖田を見ていた。
別段沖田は酒に弱いわけでは無い。疲れた体が眠気に乗ってしまったからだ。
それでも誘ったのは事実沖田であるし、失礼かとジョッキを持ち直す。


「嗚呼、無理しないで下さい。吐かれたら店の人が困りますよぅ」


水割り一杯かそこらしか飲んでいない志村は割とぴんぴんしている。それが何故か無償に悔しかった。


「じゃあそれ飲んだら出ましょう」


先に店を出た志村は茫然とした。タイヤの空気が、抜かれている。そしてボンネットには、黄色のシールが。うっそぉと呟く志村を見て、それから沖田はタイヤを見た。
ぺちゃんと潰れたゴムは玩具を思わせる。


「どうしよう。何で今日に限って駐禁のシールが…嗚呼もうお金取られちゃう」


罰金幾等だっけと呟く志村を横目に、沖田はどうやって家に帰ろうと思索した。先ず、ここが何処だか、わからない。

「志村」
「何ですか」
「アンタの家、ここから近いところにあるかィ?」


志村は首を傾げた。


「無いですね」
「マジでかィ」
「ここから一番近い駅から、六駅か五駅なんです。そこから二十分徒歩」
「俺より遠いじゃねぇかィ」


車も遣いたくなると納得して、乗り物にならないボクシィを見た。惨めだ。彼も自分も。
沖田は志村を見た。志村は警察の手続きがどうのと呟いて気づかない。
終電までの時間は、残り三十分を切った。間に合うだろうか。


「交番じゃきっと手続きに時間取られますよね・・・?」
「さぁ?俺車持ってねぇし」


困ったように志村は項を掻いた。
大体今から手続きを行ってもレッカー車が動くのは明日だろう。
野宿かホテルか・・・明日は平日だ。会社があるではないか。だとしたら今日確実に帰らなければならない。
二日酔いになりませんようにと祈る。


「沖田さん、帰りましょう」


志村は言った。遣る瀬無さが声に滲んでいる。きっと車を置いてゆくのが心配で堪らないのだろう。借金も返せていない車。


「良いのかィ?」


わかってい乍ら問い掛ける底意地の悪い自分に苦笑いをひとつ。


「店の人に預かってくれるよう頼みます。明日も僕、こっちに来ますし」
「…あ、そ」


志村が店の中へ消えていく。
沖田はボクシィに寄り掛かった。上下の大きな反動で車体が跳ねるように揺れる。剥き出しの腕に風が強く当たる。遠慮無く袖口から入る風がくすぐったかった。
電動鋸で何かを削るような音をあげ、何台も車が通り過ぎる。


「店の方、引き受けてくれました」


振りかえるとビニル袋を抱えた志村が店からちょうど出て来たところだった。
人の良い主人で良かったですとのたまい、笑う志村の頭には、騙されるという言葉がインプットされていないに違いないと沖田は確信した。


「駅までの道、案内します」


志村がこっちですと言って歩き始めた。
酔っているのか、覚束無い彼の足元。不安定な上体が左右にふらふらしていた。途中彼が転ぼうが電柱にぶつかろうが、沖田は退屈しないで済むので見ているだけだが。


「その袋の中身は何でィ?」


上体と同じくがさがさと揺れる白のビニル袋を指す。
寂びれた住宅街の下、それだけがやけに浮かび上がった。


「嗚呼、事情を話したら店の主人さんが持ってけって。本当、良い人です。今度お礼しに行かなきゃ」


志村のいまいち答えになっていない答えに、沖田は酔っ払いめと呟いた。人徳の差を思い知らされるようで気分が悪い。


「沖田さんは、いつかあそこを辞めるつもりですか?」


先行く志村が、思い出したとでも言うように、ふと口にした言葉。いつかって、あそこって。


「そのつもり、だけどねィ」


退会を申し出ようとして、エアロバイクに触ると、空調の効いたあのフロアに入ると、忘れてしまう。


「ふぅん、」


先方から聞いた癖に興味の無い言い方に、沖田はむっとした。


「どうせ、あんまり長続きしないし」
「飽き易いんですね、沖田さんは」
「飽き易い、ねぇ…もっと良い言い方があるんじゃねぇかィ?」
「ちょっと考えつきません」
「その貧相な脳味噌にゃ眼鏡しか詰まってないのかィ」
「貧相で悪かったですね。てか眼鏡は脳味噌に詰まるものじゃありません」


怒る時も敬語な彼。一種の処世術だろうそれは、何かと沖田の言葉を冷たく弾く。


「今何時ですか?」
「ん?」


プアッっと電車特有の音が響く。線路が下敷きになる音が、どんどん遠退いていった。
携帯のディスプレイは日付が変わっていて、零時半を指していた。
近くではなかったのか。
ちんたら歩いていた所為か、それとも志村の戯言に付き合っていた所為か、沖田は考えるのを放棄した。


「終電、」
「……」
「過ぎちゃいましたね」


聞こえなくなった電車の音、踏み切りの音、諸々の音が消えた。
沖田は、ぼうっと音を追いかける志村の顔を見た。蛍光灯の光で人形のように白い志村に吐き気と眩暈がした。


「歩いて、帰られます?」


御免だ。
沖田は首を振った。志村はにこりと笑った。袋が差し出される。


「取り敢えず、これ、一緒に食べませんか?」


会社に連絡して、明日遅刻しますと伝えて、安いホテルを探して、家に連絡…はしなくとも良い。どうせ誰も居やしない。
沖田は、志村が笑顔で差し出す焼きおにぎりをひとつ掴んで齧った。志村は一際嬉しそうに笑う。


「僕、あの店でこれが一番好きなんです」


嗚呼止めてくれ止めてくれ、そんな笑顔は。男相手に、あ、今こいつ可愛かったなんて思いたくない。
じんわりと手に滲むおにぎりの温かみに、沖田は泣きそうになった。




すみません、明日遅刻じゃなくて、欠勤させて貰っても良いですか。