唇が勝手に何かを伝えているようだ。彼はゆっくり首を振った。彼の胸元には、卒業生に贈られるという造花が一輪さしてあった。きっと彼に花をさした生徒は恐縮ものだったと思う。そんなことを思い、波間を漂うようにして意識は浮上し、やがては。
あのひとはいない
退屈。その一言に尽きる。暖かな陽光に目を細め、綱吉はううん、と伸びをした。
静かな小春日和。しかし夜は冬に向かい急速に寒さを増す。
周りが受験だの何だのと騒がしくなる時分、自分でも呆れるくらい綱吉はのんびりしていた。どうせ高校を中途退学してイタリアに行ってしまうのだ。必死こいて勉強して良い学校に行ったところで、無駄なのはわかりきっている。
平和主義尚且つ怠慢な綱吉は何より休日の暇な時間をこよなく愛する。日当たりの良い部屋でまどろみ乍ら好きなことができるのは、この世の至上であるとは、綱吉の数少ない持論である。不変な退屈は何とも幸せだ。
かつて己から武器を取り嫌悪していたマフィアの争いに参戦した自分は、遠い昔のことと綱吉は片付けている。周りがそう取らず勝手に騒ぐのは火を見るより明らかだが、異国文化に触れたことすら片手で事足りる回数にしか昇らない綱吉にとって、強制的に渡伊させられるということは即ち、日本の安全圏から放されるということだ。残り少ない日本の生活を満喫したいと願う綱吉を、誰が傲慢だと罵るだろう。あのスパルタ家庭教師でさえ了承したのだ。綱吉は心置きなく日本の空気を吸い、日本の食を食い、日本の言葉を使い、そして今まで生きてきて作り上げたダメツナの思い出に思いを馳せていた。
「」
口にすることを止め、ただ空気だけが抜けてゆく。
綱吉はゆっくり目を閉じた。
今まで自分の居たい学年にと胸を張って無茶を言ったあの人は、綱吉に学校を愛しているのか判別をつかせない程度の内に学校から卒業していった。風紀委員が学校を取り締まる風習は根強く残ったが、過去現在未来においてあれ程までに学校を(恐怖で)統率できたのはあの人以外にいないと半ば伝説染みた言い伝えを巻き起こした。そう考えればあの人は、もしかしたら誰よりも学校を好いていたのかもしれない。
卒業式には流石に学校指定の制服を着て、再会を誓い泣き合うクラスメイト及び級友(そんなものあの人に居たのか知らないけれど)を鬱陶しげに見ていたあの人は一輪の造花を胸にさしていた。何の花なのか知らない花は、綱吉の目の前で揺れる。
「」
名前を呼んでも、返ってこない声(尤も、あの人の気が向いたときでないと返事は返ってこないけれど)。もうあまり恐れることはなくなったけれど、あの人は何故かとても残念そうにしていた。僕はエスだからねとよくわからない言葉が、胸を渦巻く。ねぇエスって何ですか。
今日は懐かしい夢を見た。夢と言っても、頭の中で回想された、半年前の過去だけれど。
桜が命を落として地面に降り積もり、綱吉とあの人はその命を踏みしめて対峙している。何かを言うとあの人は否定するように首を振った。あの人は自分の気持ちに嘘は吐かない人だから。
何かを言うと。何も言わなかったらあの人は不機嫌そうに眉根を寄せるのだろうか。トンファーの代わりに、卒業証書と銘打った、あの人にも綱吉にも必要無い紙の入った軽い筒で、だけど思い切り綱吉を引っぱたくのだろうか。
「」
何も返ってこない。
脳裏にあの人を描く。懸想とは違う。
やけに背中が真っ直ぐな人だと思った。記憶の中の人だからかもしれないけれど、その人は確かに綱吉を殴って殴って罵って、ほんの気紛れに愛してくれた人だった。
外で季節外れの雲雀が鳴いている。
世界 = たくさんの嘘 + 爪垢程の真