例えば
題名の無い絵の上で真っ白なペンキの缶を逆さにしてみよう。
例えば
キャンバスを硬い何かに思いきりぶつけてみよう。
見てご覧!
塗り潰されたキャンバス。粉々に砕けたキャンバス。
世界が壊れたよ!
さあ、盲目の魚は何を夢見る?
開かずのまなこは深海魚
気がついたときには既に、蚊に食われた痕が大きく残っていた。気付いてから始めて痒みが疼く。むずむずする肘に爪を立て、ぷくりと膨らんだ肌に跡をつける。縦横に跡をつけて、メロンパン、とか言ってみる。酷く虚しくなった。
それでも表面のぽこぽことした感触が面白くてさくさく刺していたら、爪の間にぺちゃりとしたものが染み込んで来た。真っ赤な血。爪の生え際をなぞるようにゆっくりと、輪郭を代弁する。
「何してるの」
呆れた、と声色が言っている。雲雀さんは手を取って、ティッシュで血を拭き取った。しかし爪の間に入り込んだ血は凝り固まってティッシュでは拭い去れなかった。苛立たしげに舌打ちして雲雀さんは後で手を洗うんだよと言って丸めたティッシュを屑篭に放り投げた。ゴミになったティッシュは屑篭の縁をくるりと回る憎い演出を終えた後、不意に塵箱の中へ落ちていった。ぼんやりと見ていると雲雀さんがお茶を持ってきてくれた。
ごつごつと装飾されたカップを差し出される。それに深々と頭を下げると、雲雀さんは小さく良しと言った。犬か猫になった気分。
熱い紅茶が唇を浸し、口内を暖める。微かに火傷の痛みを舌に残し乍ら紅茶を嚥下する。ちょっぴり苦くて砂糖が欲しくなったが、続け様に飲んだ紅茶と一緒に押し込む。僕の手を煩わせた癖に文句あるのと理不尽に殴られては堪らない。最近ちょっと円満になってきた関係を崩すような愚を犯したくない。そう、いつだって事勿れ主義。駄目人生万歳。
「雲雀さん?」
「なんにもないよ」
「はい?」
人の顔をじろじろ見て、それは無いだろう。目も鼻も口も無いというのか。そんな馬鹿な。
しかし異議を唱えるとトンファーの錆びになるので気を損ねないように慎重に尋ねる。
「な、何がでしょう?」
雲雀さんは優雅にカップを傾け、ん?と言った。どうやら独り言で片付けるつもりだったらしい。
「だ、だから、何がなんにもないんでしょう?」
「嗚呼。別に君のことじゃないよ」
自分の所為で機嫌を損ねているのではないようで胸を撫で下ろす思いだけれど、お前には関係無いと跳ね付けられたようで少し淋しい。頼られるような大層な身分じゃないことは、身の程知らずってわけでないからわかってはいるのだが。
「やっぱり君には関係ある」
「はいィィイっ?」
「まさか、君みたいなちんくしゃを招く日が来るなんて思わなかったよ」
「は、はぁ…ちんくしゃ…」
カップを両手で包み込むようにして彼を見上げる。冷めてきたカップが生温い手の温度を略奪する。冷や汗がだらだら背中を伝う以外は、何ら平和な(物騒な雲雀さんが関わっている時点で平和じゃないかもしれないけれど)午後だった。
「秩序の無い絵を壊したら、絵の中の世界自体が壊れるってことだろうね」
「?…?はあ…」
「ちんくしゃな君に会えて、良かったって意味だよ」
誉められているのか貶されているのかは判別が付かないので曖昧な返事を返す。曖昧さを嫌う雲雀さんは、しかしふふ、と嬉しそうに完璧なまでの自己完結をなさっているのでまあ良いかと紅茶を飲んだ。火傷にひりひりしている舌は、人肌より少し低い温度の赤茶けた液体をゆっくり飲み込んだ。