ぱん、ぱんと弾かれる小気味良い音が響く。振り下ろされた足をいなし、そのまま引き寄せて顎に掌底を打つ。受けるべく顔面に出された腕との間で、溜めていた氣を一息に拡散させた。


ぱんっ!


怯んだ隙に腕を掴み代え、体を振り子のようにたわめながら投げる。片手で地面を叩き空中で体勢を変えたシンクは、若干離れた場所に降り立った。


「…っ、ずるいんだよその技!威力の微調整なんて傍目でわかるわけないだろ!てかアンタ剣士のくせに邪道なんだよ!」
「ならこれも使わないでやろうか?もうハンデ四つ目になるけど」
「……別にいい! 泣かす!」


再び拳の強襲が始まる。
手合わせとは名ばかりの殴り合いは、この頃シンクの日課になっている。かけたちょっかいを悉くかわされ、いつの間にか本気になっていただけだが、やはり軽くいなされて手傷を負わせることもなく、今はやり返されるように仕向けるのが精一杯である。
悔しいが、シンク以上に体術の優れているこの少年を認めざるを得ない。素直に指南を申し出ることはシンクの矜持が許さないが、こうしてぶつかっていけば逃げることなく付き合ってくれるのはありがたかった。
足払いをかけ、崩れた腹に尖らせた拳を打ち込む。少年は後転の要領で拳を足の裏で止め、器用に片足でシンクの脇腹を蹴って転がる。更に来る足を払えば、腕を足で絡め取られ、勢いで関節を締めながら少年はシンクの背に座って首を押さえた。


「もー満足か?」
「うるさい!まだやれる!」
「俺疲れたんだけど」


少し息が上がっただけで何を言うか。
忌々しげに舌打ちして、背に乗っている腹立たしい少年を振り落とす。少年は肩を竦ませてさっさと建物の中に入ってゆく。
自分と同じレプリカのくせに、誰にもへつらわない真っ直ぐな後姿は見ていてとても切なかった。必要とされないことを気にも止めず、製作者の勝手さを憤りもせず、好きに日を送っている彼はまさしく生きている。彼のように生きられるレプリカは、シンクの知る限り、どこにもいない。しかしそれをうらやむかといって、その生き方を突然強いられれば恐らく、シンクは途方にくれてしまう。良かれ悪しかれ、シンクはそういった生活とは程遠いのである。


「アンタさ」


少年はちゃんと足を止めて振り向いてくれる。浮かぶ表情は何もないが、隠れた目をまぶしそうに細めてシンクを見ている。
シンクは少年を呼び止める名を持たない。少年を誰も名前で呼ばない。自称雇用主のディストでさえ、『あなた』だ。それでも少年は振り返る。その無名さが唯一、少年をレプリカたらしめるもののように思えた。


「アンタさ、一応ディスト個人と契約してるって言ったよね」
「ああ」
「でも死神の任務についてってるよね、護衛も兼用で。そこにオラクルの介入はないんだよね?」
「…賃金があいつの収入から出されてるけど、多分、ねぇ」


それがどうしたと少年は首を傾げた。謀に関する頭は自分の方が上だとひそかにシンクは息を吐く。


「アンタの意思がどうであれ、アンタ、ヴァンの手駒に見られてる」
「…どういうことだ」
「鮮血」


少年の肩が顕著に揺れる。


「例外はいるけれどヴァンの直轄の部下には、たいてい二つ名がついている。ディストの任務についてってあんたがディストの前に出て戦う度に、アンタの知名度が上がってる。同じオラクルとしてアンタを見ている連中が、勝手に言ってるだけなんだけど。でも」


名目上は、ディストの副官扱いなのだろう。
二つ名がつけられるのは、その力を畏怖している人間の隠れたやっかみももちろんあるが、伊達や酔狂なんかで綽名はつかない。そんな名が出回ってしまえば、いくら本人が否定しても、周りの人間にはきっと届かない。
少年は少しうつむいた。仮面に遮られているその目は、僅かに哀の色を含んでいるような気がする。


「…俺はまた、とっちまったのか」


呟かれた言葉をシンクが理解することはない。しかし振り切るように顔を上げた少年は、何の憂いも抱えていないように思えた。


「どう思われようと俺はあくまでディストの協力者だ。ヴァン・グランツの命令は、聞かない」
「…………」


まるで本人が目の前にいるかのように挑みかかってくる目。強い光を宿している(ような気がした)。火山に捨てられたときに見た、同じ顔の虚ろな双眸では持ち得ない眼光(見えないけれど)。ぎらぎら光る意志。
これだけ自分を確立しているのに、言わなければ人ならざるとわからないのに、何故、レプリカというものを厭わないのか。平然と、身を取引できるのか。


「…アンタ、レプリカをどう思ってんの」
「……」
「同情?憐れみ?それとも何、アンタも自分を哀れんで酔うタイプ?」


しかめられた(ように見える)顔が、それはお前だと言っている(ように見える)。


「どうせレプリカなんてオリジナルが悪事に使うためにしか作られない。使い道がなければ簡単に捨てられる」
「確かに、殺されかけて再び生かされたお前は珍しいだろうな」


そうだろ、レプリカイオン?
ガチャン、と音を立て、少年の行く先を遮る。僅かに砕けた壁を睥睨して、少年は足で遮蔽するシンクを見た。


「何を知っている」
「………」
「言え!何を知っている!」
「…全ては知らない。知っていることだけ知っている」


静かに少年は続ける。例えば、


「お前の兄弟の数だとか。今の導師が少し前と違うとか。来年はあらゆる意味で、あらゆる場所で、混乱と戦争があるんだろうな、とか」


は、と薄い唇から呼気が吐かれる。


「これから多分、レプリカが無為に作られる。そしてきっと、この世界のために、レプリカたちは死ぬことを選ぶ。心無いオリジナルのせいでそんな選択を彼らにさせるのは、嫌だ」


多分、とか、きっと、とか、曖昧な言葉を口にするわりに、少年の言葉は力強く来たる未来を捉えている。あたかも彼の眼前には、過ぎゆくその時々が広がっているかのようで、まぶしくも暗澹たる何かを内包する自今を誰よりも早く知っているようでもあった。


「ヴァン・グランツに知らせるか?」
「…言ったらどうする」
「今まで通り。俺の好きにさせてもらう。あの人が俺を消そうとするのなら、目一杯抵抗する」


シンクは気づいた。少年がヴァンの名前やその人を指す言葉を口にするたび、どうしようもない親愛と尊敬の念があふれていることに。接する機会などないのに、一種の崇拝すら感じる。口調はあくまでも穏やかだ。
シンクの背筋を駆け上がるのは、恐怖だった。こいつは何を知っている。
ヴァンが鉱山を持つ街を魔界に落とそうとしていることも、キムラスカとマルクトが戦乱に落ちることも、シンクも今の導師もレプリカということも、一部を除いてこの世のほとんどが知らないこと、それ以上のことも、少年は知っていると雰囲気が言っている。


「お、前…」
「アッシュ!」


たたた、と足音も高く、シンクの同僚が兄弟(だか姉妹だか)とかけてくる。


 ―アッシュ?


少年はくるりと甘い色の髪をなびかせる少女の方へ体を向ける。まさか。


「何アンタ。燃え滓って名前なの?ずいぶんな名前をつけられたね」


何故か本人ではなく怒った少女のヒステリックな声に、湧き上がったむかつきのままに鼻で笑ったシンクは、ふと風に遊ばせている少年の赤らんだ髪を見る。
色あせたその髪は灰などではなく、寧ろ最後のあがきとばかりに盛る斜陽のように緩い温もりを湛えているように思えた。









(081122)
(081218)掲載