アリエッタは導師守護役から外されて以来、あまり他人との関わりを持たなかった。
侍らせている魔物を恐れてか、人は有事以外にアリエッタに寄り付かず、また、アリエッタも人付き合いが上手い方ではないので、自然と周囲との間に少し、けれど元より寂しがりだったアリエッタの心を更に締め付けるには十分の距離ができてしまった。守護役だったときは上目だったがちゃんと前を向いていた目は、地に落ちてしまったのである。
アリエッタは人形を自分の胸元に押し付けた。この人形はもう、潰しすぎて少々形が崩れている。涙が目尻に溜まったが、腕に力を入れて堪えた。
導師イオンが一時の体調不良から快復し、また各地に布教や巡業を再開したと聞いたとき、既に守護役ではなくなったアリエッタはもしかして、と思った。もしかしたらイオンはアリエッタに心配されることを憂いただけで、またアリエッタと一緒に仕事をさせてくれるのでは、と、期待した。けれど、待てども待てども復帰の要請こない。もうイオンはアリエッタを必要としていないのだろうかと、そろそろ本格的に泣き暮らそうかというときに、アリエッタは一番見たくないものを見てしまった。
あまり仲が良いとは言い難い人形士が、かつて自分が着ていた守護役の制服に袖を通して、イオンの横で楽しげに笑っている。まるで友達と接するのと同じように、隣に立って、笑いあっている。
体が大きくわなないた。見たくないのに足から根が張ったように動かない。歯を食い縛って、辛うじて声は抑えた。でなければ恥も外聞もなく泣き叫んでいた。しかしどうしたって涙は止まらず、結局二人が通り過ぎてから、アリエッタはゆっくり座り込んだ。
何で、どうして。本当に、本当にイオンはアリエッタをいらないと思ったのか。
イオンは、アリエッタが守護役として恥ずかしくないよう、守護役の品位で導師の威厳が損なわれることもあるからと、それによってアリエッタが責められることのないようにと、対外的な礼儀は徹底させた。その他人行儀さは少し悲しかったが、それでもアリエッタのためを思ってくれているのだと嬉しかった。なのに。
「何で…アニスが…」
人目も気にせず笑いあえる。それをかつてアリエッタは渇望した。今も、少しだけ望み、希っていた。
それをあの、人形士は。
「…ずるい…」
羨ましい。
妬ましい。
恨めしい。
そんなときに手を差し伸べたのが、ローレライ教団の軍部を若くして取りまとめる男だった。主席総長という、大層な肩書きを持ったその男が言うのには、自分は導師守護役として護衛の任を全うできなかったから、職務を降ろされたらしい。今まで補佐役としていた彼が幾度となくアリエッタもイオンと共に守ったその様子を、イオンは守護役に適っていないと思ったのだと言う。
強くなれ。強くなって、一人で導師を守れるようになれ。
男がくれた一個師団の頭という椅子は、それを叶えるに満ち足りているように思えた。イオンのために、そしてあの男のために強くなりたい。だから簡単に泣いては駄目なのだ。
顔を拭ったアリエッタは、傍らにいる兄弟を撫でる。ライガはとても暖かい。手から伝わる温もりに一息吐いて、ふと目線を遠くやる。
既視感を抱く深緑の髪に、アリエッタは体を固くした。
導師を話題にすると、いつも機嫌を悪化させるアリエッタの同僚は、何故かふとしたときにイオンの面影を映す。それを言うとまた機嫌が降下するものだから、アリエッタは決して口を開かないが、些か恨めしげなアリエッタの目で何を言いたいのかわかってしまうらしい。いつも心無い言葉でアリエッタを詰るので、アリエッタはあまり彼を好ましく思わない。手酷くいじめるくせに気まぐれに面倒見が良いから尚、アリエッタの目は恨みがましくなる。
けれど、彼といるあの人間は、ありのままのアリエッタを受け入れてくれたイオンを通じて知り合った、魔物と意思を交わせるアリエッタに臆することなく話しかけてくれた、数少ない人間。アリエッタが魔物に育てられたと知っても、名前を教えてくれて、握手を求めてくれた人間だった。
何をしているのかとそっと窺えば、シンクが足癖悪く彼の進路を遮り、何か言っていた。滅多に表情を動かさないあの人の感情をイオンは易々と読んでいたが、アリエッタにはよくわからない。けれどくだらない人間を相手にしない冷静なシンクが、ああも食って掛かっているのだから、きっと彼も導師を話題にしたのかもしれない。もしかしたら、アリエッタにイオンからの言伝を持ってきてくれたのかもしれない。
だって彼は、いつもイオンの傍にいたから。
「アッシュ!」
駆け寄る。シンクの風向きが目に見えて悪くなった。
「何アンタ。燃え滓って名前なの?ずいぶんな名前をつけられたね」
「アッシュの名前、悪く、言わないで!」
「名前も名乗らないこの不審者と知り合いなの?」
「アッシュは不審者なんかじゃないもん!アッシュは、アッシュは…!」
シンクがこちらを値踏みするように見ている後ろで、彼は静かに一回、首を振った。ああ、知られたくないのだ。何故か知らないけど、シンクに知られたくないのだ。
言葉に窮してアリエッタは人形を抱え直した。
「シンクのいじわるぅぅ…」
「あ、そ。意地悪でけっこう。連座でアンタのことも報告しとくからね」
言い捨てたシンクは足を退けて興醒めしたように歩いていった。
シンクの気配が遠くなり、少年は改めて膝を折り、アリエッタの頭を撫でてくれた。もう、彼しかこの頭を撫でてくれる人はいない。感極まり、アリエッタは少年に体を預けた。
「アッシュ!アッシュぅ!」
「久しぶりだなアリエッタ。元気か?」
「イオン様が、イオン様が、アニスなんかにとられちゃったァ!」
「そうか」
「イオン様、アニスを守護役にして、から、変わっちゃった、です…!イオン様、イオン様、アリエッタ嫌いになっちゃった、です、かぁ?だから守護役、降ろされちゃった、ですかァ…っ?」
「違ぇよ。イオンはアリエッタのこと、大切にしてる。大切だから、アリエッタが大事だから、今の導師の守護役から外したんだ」
わかるだろ、といわれ、アリエッタは涙は散るほど首を振った。
わからない。わかってしまったら、アリエッタの中の何かが小さくカシャンと音を立てて壊れてしまうかもしれない。
アリエッタを撫でる手首には、イオンが補佐役と認めるためにさせた譜業が光っている。守護役の服すらないアリエッタには、それがひどく羨ましい。
「でも、でも、アッシュ、まだ補佐役、です。イオン様のそば、に、いま、す」
「いない」
「だってその腕、輪」
「俺はアリエッタと同じ、補佐役を降ろされちゃったんだ。さあ考えろアリエッタ。俺の言った言葉、よく考えて」
「でも…それ」
「………外してくれなかったんだよ。これはイオンからの餞別だ。嫌味をきかせた、贈り物」
痛みをこらえるように口元を歪ませた少年が、今はディストのもとで研究員をしていると何かに耐えるように言って、逃げるように去っていったのに、アリエッタは首を傾げた。
昔三人交えて穏やかな日々をすごしていたのに、今は擦れ違ってばかりで、何故だか寂しかった。
(081118)
(081218)掲載