ファブレ家のご嫡男は、とても変わった子供だと、ガイは思う。いや、彼が十の頃に経た誘拐の体験からすれば、変わったという言葉は些か語弊がある。何せ、記憶喪失と分裂症まがいと診断され、二十歳を過ぎるまでと言われた軟禁生活を、己から監禁生活にしてしまうほどの自閉振りだ。
誰とも、それこそ実の親とも関わろうとせず、部屋に閉じ籠り、終日ベッドの上で自分はルークではないと首を振る子供の容貌は、誰がどう見てもファブレ家嫡男に相違ない。幼い頃から顔を見ていたガイすらも、否定すべくもないほど子供はルークとそっくりである。さもなくば公爵の側女がということになるが、息子に対する冷遇とは人が変わったように異なる夫人への寵愛を知る者は、一様にしてそれを否定する。
とにかくその子供は周りのそんな反応に増して頑なに人に怯え、好んでいた剣術の指南も出なくなり、病弱な夫人の子息然と、心身ともにひ弱な子供になってしまった。かく言うガイも一度だけ子供に会ったときに笑いかけたが、 「おれをころすの」 という彼からの問いかけに言葉を詰まらせた途端に、部屋に篭って入室を許されなくなってしまったのである。
ガイは気づいた。この子供は、ガイの胸に静かにくゆる憎しみの心を知っている。それのみならず、他人の負の感情に異常なくらいさといことに思い至ったのは、子供の部屋から遠ざけられた何れの人間も、本人がいるいないに限らず子供に関して悪辣な言葉を吐いたやましい時期があった者ばかりだと知ったからだった。
子供は、幼いながら自分の周りに憐れみや恨みごとで溢れていると理解している。理解していても、経験のない冷たさの対処がわからずに殻を作ることしかできないでいる。
ガイは、何とも言えない気分になった。
懊悩を繰り返すそんなガイを、体が弱くほとんど屋敷を歩けない公爵夫人が人気を払った部屋に呼びつけたのは、その頃だった。
「己の仕事を果たせず、お前には肩身の狭い思いをさせてしまっていますね」
「奥さま…」
「ねぇ、ガイ」
薄いカーテンから漏れる柔らかな木洩れ日を受けて尚、白い顔色を晒す夫人の細い手首を見やり、ガイは言い様のない無気味さを感じ取った。腕の筋肉が張るほど重いものを持ったことなどないだろう、艶やかで柔らかそうな手なのに、骨が浮いて殊更老いを感じさせる指先。己の親が老いてゆく様を見るまでもなく死別したガイは、それに未知なる恐怖を嗅ぎ取る。しかし、湧き上がった憐憫や気持ち悪さは、彼女の目を見て消し飛んだ。
天蓋から垂れる薄布の向こうからひたとガイを見据える翡翠色をした濃い緑は、病床に臥す人間にしてはあまりに気力に満ち、まして鬼籍に入る様子など微塵も感じられない。男にはない、若輩者にもない、子を持つ母だけが得られる強い光が、そこからガイを睨むように射る。
「わたくし、あの子が帰ってきてから一度だけ、あの子とお茶を飲んだことがあるの」
「…………」
「一度…そう、一度。それ以来、どんなに誘っても部屋に閉じこもって、ふふ、親子って似るものね」
「……………」
「そのとき、あの子から教えてもらったの。あの子は、ルークではないんですって」
彼女にも言ったのか。ガイは密かにうんざりした。
帰ってきてからこちら、彼はまともに返事をしたことがない。ルークと名前で呼ぶと、即座に否定する。俺はルークじゃないと癇癪を起こす。使用人はともかくとして心身を削って心配し続けた肉親に向かって言う言葉ではないだろうと夫人を見るが、夫人は楽しげにころころと笑っていた。
「ええ、確かに、誘拐される前の息子ではなかったわ。だからね、ガイ、お前にだけは、教えておきます。あの子の本当の名前…せめてしがらみの解けたときにお前は、あの子の傍にあれるよう」
蠱惑的に笑む夫人は、女の顔ではなく、確かに母御の顔だったのだ。
さて、ガイはかつてと同じ光景を前にして、暫し躊躇っていた。
かたく閉ざされた扉。鍵はなく、開けるに容易いが、これを開けてもこれ以上にない拒絶があることを知るガイには、取っ手に手をかけることに途方もない疲労が感じられた。
今いる場所、タルタロスは、揺れもせず、静かである。ユリアシティのある地に着岸し、先に降りた皆がガイに、部屋に篭ったままのルークを連れてこいと言ったのだ。
誰とも交流を計らなかったルークに周囲の目はアクゼリュスを人民の命ごと消し去ったととても辛辣で、ルークをここから連れ出すことは、積もりに積もった彼らの鬱憤の捌け口の格好の材料になるんじゃなかろうかと、なぜか危惧する。ただ一人、涙をも流してルークの無辜を訴え続けたイオンだけは、ルークを信じてやってくれと必死にガイへ伝えたが。
「…ルーク?」
心なしか重たい鉄扉を開け、中を窺った。
枕元に嘔吐の名残があり、水差しは床で粉々になっている。シーツは、くしゃくしゃになり、ひどく荒れていた。ルークの心の有り様に見えて、やはり人前に断罪のために引きずり出すのは、気が咎める。
顔を歪めて一旦視線をそらし、改めてルークを探した。
「…、…ルーク!」
ルークは床に伸びていた。冷たいタイルに足を投げ出し、首をぐでんと曲げて、口の端から泡を吹いている。焦点の飛んだ目はガイが駆け寄っても反応らしい反応はなく、痙攣を繰り返す手元に水差しの破片が握られているのに気づいたガイは、髪に紛れて顔についたひどい傷から出血しているのに青褪む。
(耳、が……)
皮一枚で取れかかった耳が赤くぬらぬらと濡れていた。
残念ながらガイに医術の心得はない。そっと抱えた体の軽さに思わず泣きそうになり、どちらにせよルークを連れ出すことになるだろう結果にガイは焦燥もあらわにタルタロスを走り出た。
「旦那!」
「ガイですか。ずいぶん手間が……! それ、は」
「ルーク!」
動きを止めたジェイドを押し退けて、イオンはルークの様子にさめざめと涙を流した。遠巻きに見ていたアニスとナタリアがルークの顔を覗き込み、足を少し引く。ティアは握られたままのガラス片を見遣り、目を丸めた。
「…自分で、やったの?」
「げっ、ほんとに? 何考えてんの、このお坊っちゃん」
「そんなことより、早く手当てを!」
回復は、ガイの得手ではない。だからこそ船外へ運び出したというのに、ティアは眉を寄せただけで、ナタリアは近付きもしない。今ルークには親善大使という、経歴や年齢に見合わぬ役目が重くのしかかっているのだ。ここにいる誰よりもその地位は高く、誰よりも身の安全を慮られねば、両国の安寧に繋がらない。それでなくとも、少なくともイオン以外の彼らの反応は、状態異常を起こした人間に向けられるものではなかった。根源のわかりきった憤りがガイの裡で頭をもたげる。
ガイは、この臆病な、少年のような青年に執着し始めている。指で軽く囲んでしまえる二の腕の細さや骨ばったばかりの肉付きが悪い足、抱える体の軽さはガイの仄暗い復讐心を煽ると同時に、人や生き物が死ぬことに何より恐怖を示す、顔色のいつも青い表情に愛しさをもたらす。優越といった歪な庇護欲ではあるが、憎悪を緩和するほど、それは静かにガイを慰めたのである。
「…………ぁ」
ガイの腕の中の体が大きく震え、ゆらゆら定まらなかった目がようやく辺りを捉えた。
「ルーク、大丈夫か?」
「…がい?」
「ティア!」
「ええ」
イオンから受け取ったグミを手持ち無沙汰に持て余し、ルークは大人しくガイへもたれかかって治療を受けていたが、ふとジェイドに目を向けて自嘲したように笑った。
「アンタだったら、上手く切れたかな」
「………なぜ?」
その『なぜ』が、『なぜ』ジェイドなら上手く切り取れたと思うのか、『なぜ』切り取る必要があったのか、どちらに係るかはわからなかった。けれどルークは後者ととったらしい。
「だってもう、いらないんだ。ルークを求める声も、嘘を吐かれる音も、何もいらない。聞きたくない」
「…耳を切り落としても、聞こえなくなるわけではありませんよ。あくまでこれは集音機能ですから、聞きたくなければ鼓膜を潰しなさい」
ルークの駄々のような独白に、ジェイドはいたって冷たく、しかし憐れみを滲ませた目で言った。
「どうしてだルーク、どうして…っ」
「俺はルークじゃない!」
ティアの腕を振り払って、ガイの胸を力なく押し遣って、ルークは諦めたようにもう一度、俺はルークじゃないと弱々しく繰り返した。
「──父上も国王も、ヴァン謡将もガイも、どうせ俺がルーク・フォン・ファブレとして死ねば満足なんだろ。俺個人を誰も見やしないんだからな」
唾棄して傷の塞がった耳を弄び、ふとおどけたようにジェイドの後ろに目を投げかける。そこには、思いもよらぬ光景に硬直しているアッシュがいた。
「そうだろ、オリジナル」
「オリジナルって…」
「まさか」
ガイの呟きはジェイドの嘆息にかき消された。見るとジェイドは、絶望を覗いたような顔でルークとアッシュを見ている。
「ふん、気づいてやがったか。レプリカの分際で頭は回るようだな。ヴァンに手傷を負わせたのもテメェか?」
「お前の言うレプリカルークは、人間に疲れて疾うにおねむだ。俺は代わりなだけさ。真っ当に死にきれなかったけどよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。ルークって、総長の言いなりになってアクゼリュスを落としたんじゃないの?」
「違うんです、アニス! ルークは、本当に何もしていないんです!」
尚も募るイオンの必死な声に、取り返しのつかない罵声を口走らせたアニスは顔色を悪くする。
今更イオンに事の次第を確認するティアたちと、憮然とした表情でルークを見るアッシュをガイはどこか遠くで認識した。
ずっと殺してやろうと虎視眈々と首筋を睨んでいたファブレ公爵子息は、今腕の中にいる青年ではない。なら、この腕に抱えている彼は。
「ナイルフォート?」
月と太陽を結ぶ赤らかな景色が由来なのだと、かつて夫人に教えられた。彼女は疾うに、アッシュと彼を分かちて視ていたのだ。七年前からずっと。
名を呼ばれた青年は、今こんなタイミングで名前を言うなよ、空気読め、と震える声で小さくごちた。
「嫌いだ、みんな、みんな死んじまえ」
吐かれる呪詛はあまりに弱々しく、あまりに切なく、あまりに愛おしい。
***
TOA/ルーク中心、ガイは救い有/PT軽度〜重度厳しめあり・ネタのものっそい耳のいいルークか二重人格ルークから
実はこの話、「耳が良いルーク」と「二重人格ルーク」のどちらにも話がとれるほど曖昧です。まあ、耳が良いにしろ悪いにしろ分裂症まがいですが(苦笑)
なんか、ルークが一番ひどい目にあっているような気がいたします。というより、PMに厳しくなる前段階で話が途切れてしまいました。
とにもかくにも最後にルークがこんなことを言ったのは、さんざんひどい目に遭っても捨て切れない期待を自分で捨てようとした魂胆があったわけです。こどもながらの防衛というやつですね。
思い上がり、思い違いをしていたガイは、これからレプリカとかそういうものに拘泥せずにルークの信頼を回復させることでしょう。ほかのPMはそうはいきません。何せ人間ではないということを念頭に置いてしまっているのですから。
恐らくルークが懐くのはガイと、ちゃんと子ども扱いしてくれるピオニーと一人の人間として見てくれるアルビオール兄妹ではないでしょうか。さすがにここまで書く気力がもたなかったので、ここらでご容赦くださいませ。
リクエストありがとうございました。
title thanx:海月
(090921)