最初の内は、憎んでた。一族を皆殺しにされた恨み辛みが根座した心の闇はそう簡単には払拭できるものではなかったし、するつもりもなかったから、胸の裡でくすぶり続けるそういう感情を、今更なかったとか言うつもりはない。
アッシュが誘拐され、お前が赤子同然でファブレ家にきたとき、正直言って、あまり同情はしなかった。寧ろざまあみろって公爵を隠れて嗤ったな。良くも悪くもアッシュは王族としての矜持や次期国王になるために必要な立ち振る舞いを要求され、また、その期待に上々な反応を返した立派な子息だったのに、帰ってきたのは言葉も歩き方も忘れた哀れな子供。大事な跡継ぎがこんな醜聞にも似た状態で帰ってきたことに、暗い愉悦を覚えたのも確か。別人だったわけだけど。
それで、年が近かったからか、前々から懐かれていたことを理由に世話役を申し付けられて、お前を抱きかかえさせられた当初は大いに戸惑ったさ。いきなりチャンスが来たって喜んで、でも抱いた体は柔らかくて生暖かくて、何だかぐんにゃりして、落としそうになって慌てて抱え直した俺に、お前、覚えてるか? 笑ったんだよ。へらりって、口元も目も弛ませて、笑ったんだ。うらぶれた寒いコーラル城から着の身着のままの呈で帰ってきたせいで疲れていたんだろうな、人形みたいに無表情で、周りの声にも芳しい反応もしなかったお前が、ただ頭に手を添えられただけで、笑ったんだよ。
あのとき、心臓が嫌な感じに軋んだこと、今でも忘れない。きっと、あのときにはもう、無意識の内に復讐を諦めることを視野に入れていたんだと思う。
生きているんだ。力が入らなくてぐにゃぐにゃしていた体はとても気持ち悪くて、人肌の体温と口の端から垂れていた涎と屈託のない笑顔に、何度吐気を催したか。何人も、目的を妨げる人間は女子供老人だろうと殺すことを厭いはしないと焼かれるホドを前に誓ったのに、下手な人間より余程素直に生きている実感を如実に伝えてくる赤子のただ一人すら、俺は殺せなくなっていたのだ。
 









































ルーク、約束は思い出してくださいまして?
それは彼女にとって、生きていくのに必要で、彼に強く恋焦がれたあのときを鮮やかに想起させる大切な思い出だった。だからルークにとっても同じだろうと、囁くように語らう日が来ればと夢見ていた。その度合いが強すぎたのだろう、約束を交わした彼が現れたとき、彼女はルークから目をそらして彼へ歩み寄った。今まで一方的に散々ルークへ約束の言葉を求めたのに、虫が良いことにルークへの心配もそこそこに。
偽者なのだから、覚えていなくて当然だったのだと、そう軽く見てしまった。しかし偽者だったのは彼女も同じで、その存在を全て否定されたとき、足元がふいに見えなくなり息が詰まった。水底に長く沈められたように息苦しく、心臓の下がしくしく痛んだ。彼女はこれを、ルークにずっと強要していたのだ。

あなたは今まで、苦しかった?

必死に彼女を慰めるルークに、今更こんなこと、聞けやしない。









































初めから私は、ルークを疎んでいた節があった、と思う。
けれどひた向きに頑張っている彼を見て、少し、胸がきゅ、と痛んだ。それは気持ちの良い痛みで、じわりと鼻まで迫り上がったら、次は涙が出そうになった。
そうこうを繰り返していると、その痛みがどこか甘いものに感じた。いつしか、この痛みも涙もひっくるめてひとつの感情に育ったけれども、しかし私は彼に胸の裡を打ち明けることが怖くてならなかった。彼にずっと付き従い慕っていた魔物の仔から、彼はもう長くないと知らされたからである。
今までだって命の危険は付きまとっていたのに、彼が消えてしまうと知ったとき、私はげんきんにも彼の落命に心底震えた。彼は文字通り何もかもを残さず消えてしまう。その体も心も残さずに。
最後だからと彼に自分の想いを言うのも、やはり憚られた。最後にはさせないという気持ちが、彼の生還を諦める自分を無理に覆っている。だから彼に聞こえないように好きと吐露して、涙をこらえて心の中でまたねと手を振る。
共に連れてってとは言えなかった。私には、私だけでなく他の仲間にも、その資格はない。
何せ私たちは、先に彼へ背を向けてしまった。彼の暖かい後ろ姿から逃げてしまったのだ。









































イオンが死んでしまってから、寂しさを紛らわす何かを、アニスはずっと待っていたに違いない。
思い出の多くつまったこの服を、脱ぎ捨てたくてたまらなかった。けれども衝動で服を火にくべるには、その思い出がとても甘やかで大切すぎて、いつも一歩のところで腕は止まる。
多分、苦しかったときの方が多かった。イオンといてもなけなしの良心が削れて血を流しながら悲鳴をあげるのがひどく辛くて、けれど脅されて共にいるだけではない楽しさも徐々に生まれて、すわ両親と天秤にかけるなんてことが、だんだん苦しくなった。
助けて、と言えたら良かったのに。
それと似たような雄叫びをルークがあげているのに気づいたのは、恐らくアニスが一番最初だったろう。鉱山の街が崩れ落ちたときにアニスが手酷く当たったのは、無意識の内に彼の慟哭を聞きわけたからなのだとしたら、ずいぶんと虫の良い断罪だったと今では思う。
まるで子供のように(事実彼はアニスよりも子供だった)周りを顧みず、騒ぎ不満を漏らしていた彼を、頼る者のいなかったアニスは、きっと知らず羨んでいた。何も不自由がないように見えた、独り善がりなアニスの幼稚な嫉妬。
髪を切って、苦悩しながらしがらみから脱け出そうとする彼を、ああいいなぁ、とアニスは思った。アニスはどちらも選べず、結局しがらみからぬけることなく大切な片方を喪ったのだから。
それでも再び彼を妬む羽目にならなかったのは、ひとえに、彼がどれだけ苦しんでいたかを知っていたから。身勝手で中途半端な我が儘のせいで、彼よりも責められて当たり前な結果を残したアニスを、それと知りながら頭を撫でてくれたからである。
けれどアニスは、無器用すぎる彼の優しさに報いる方法を、知らなかった。苦しんでいる彼を癒す方法を、知らなかった。レプリカだからと生まれたばかりの彼の胞輩が差別されるのを、黙って見ている傍らで、彼が音もなく傷ついていたことを知っていたにも関わらず、だ。


ルークはどうして優しくしてくれるの?


尋ねたアニスにルークは苦笑いを落として言った。


俺は優しくなんてないよ。


嘘ばかり。
アニスは思ったが、口にはしなかった。すぐ表情に出る彼と違って、ポーカーフェイスも崩れていなかったに違いない。
きっと彼は、優しいという意味を履き違えている。優しくできる人間は、絶対に間違えないと、無意識に考えている。優しいとは言えなかった自分は間違えたから、だから大勢の人間を巻き込んでしまったと、苦悩しているのだ。
それを肌で感じながら、アニスはいつも彼に笑いかけていた。彼のささやかな気遣いにアニスが救われ、アニスの笑顔に彼が救われるのなら、これくらいのコケティッシュを演じるのだって、全く構いやしなかった。
だから早くかえってきてと、アニスは今日も小さな空虚を抱えるのである。









































自分の気持ちに早々ケリがつけられるほど、自分は大人じゃない。しかし、何も知らず、それこそ憎まれたり利用されようとしていたことも知らなかったあの人間が、涙ぐましいくらいに変化や自律を求め、徐々に形となってゆくのを見せつけられて尚も一方的な憤りを抱いて殺意を向けられる程度には、無情でもなかった。



「…俺はお前を赦せねぇ」
「……うん」



うん、と。
否定も言い訳も持たず、一言溢した言葉に、彼の万感が込もっていた。
赦さないではなく赦せないとしか言えなかった自分の懊悩とそれを口にしたことによる含意を全て受け取り、それでも、申し訳なさそうに眦を下げて、一言。
その中には、認めてくれようと苦心した自分の心中を察する労いと嬉しさと哀しさと、残り火のようにちろちろ顔を出す、僅かな怒り。レプリカとして生まれたという、誰にもどうにかできない過去を今更引きずる自分への、怒り。
恐らく彼の心の裡を知る機会がなかったら、見逃していたであろう小さな彼の本音を知った頃には、もうそれに対して思うところを尋ねる相手が残滓を残していなくなってしまっていたけれど。
長い時間をかけて彼の記憶を彼の目から見ていた時分にわかったことは、他方に向くはずだった悪感情をわかりやすい指標だった彼一人に向けていた自分の幼さと、理不尽な自分の怒りを甘んじて受けた彼が誰にとも知られることなく噛み締めた悔しさだった。エゴで押し付けられた感情に何度も傷ついたはずの彼は、しかし過去のどうしようもない体たらくの彼自身を戒めるように、誰にもそれを言わなかった。そんな自戒はいらないのだと、見当違いな戒めを次々に課す彼に首を振ったが所詮は過去の記憶。ついには最後の最後まで居場所を奪ったことにひたすら謝って、それでも彼は生まれたことは後悔していないと申し訳なく笑って消えた。
ひどく、嫌なものを見てしまった。彼の心情を勝手に暴いた上、自分が変わってしまったことを否めない。
もう自分は、気高き王家の一族であるルーク・フォン・ファブレとも、苛烈な激しさをまとう鮮血のアッシュとも名乗れないのだろう。









































ああ、なんと哀れな。
そんな胸臆すらを見透かすようにして、子供はうっそりと背筋が凍るような笑みを浮かべた(奇しくも浮かべられるそれが、日頃自分が浮かべるものと大差ないのだとは、誰も指摘しなかった。今は狙ったが如く二人きりである)。


( 同情するなら愛してくれよ )


まるで期待していない顔に、ジェイドは手遅れだと判じた。
手遅れと知ったのに、子供が最早誰に対しても自分は愛されることなどないのだと期待していないとわかったのに、それでもジェイドはこの子供を哀れむと同時に、愛惜しむ気持ちをやめることができなかった。それが優位な立場であるが故の傲慢さからくるのか、まるで無垢なままにひたすら傷つき続けた子供にこがれる憧憬(或いは憐憫)からくるのか、他人の心臓が如き異物と化した脈打つ体では、ジェイドには区別もつかなかった。
それも見越したように、子供は柔らかく空っぽの笑みを浮かべる。許すように。


「いいんだ。もう、いいんだ。だって、」


続くはずだった言葉のその先は、ジェイドも知っていた。
諦めるその表情。足掻こうとすることを止めてしまった後の、覆う絶望と乱暴に叩きつけられる無力感。
ふいに、火が灯ったようにジェイドの体が熱くなった。席巻するようにじわじわ染み入る極彩色の悲しみは、それは怒りであった。
しかし目の前のこの子供に無為な怒りを容易にぶつけられるほど、ジェイドは子供になりきれなかった。きっと、守護役のあれがいれば、怒っただろう。王女や聖女の子孫がいたなら、やはり怒っただろう。それが彼女らの役目であり、それを鎮めなだめるのが、ジェイドの役目だった。掛け値なしに怒れるなど、今更。
それだけの話である。
ならば。


私はあなたを愛すなんて、できやしないでしょう。今のあなたを癒すなんて、できやしない。


大人になって、いろいろなことに見切りをつけ、割り切りを覚えて自分が傷つかないように上手く逃げる方法を学んでしまったジェイドに、この子供は真摯さを見出さない。
ずたぼろになって遮二無二走った彼を癒すのは、誰でもなく、ただ無情に過ぎる時の経過だけである。時間に流されて、ジェイドや他の大人と同じく目をそらす方法を知って、ゆっくりゆっくり諦めるのである。惜しむらくは、それを悠長に待っていられないほど、子供に残された時間があまりにも少なすぎるだけで。
だからせめて、子供が安寧を抱けるように望む言葉を降らせてやるのだ。
かえってきたら(帰ってきたら、還ってきたら)、今度こそ、子供に優しさと惜しみない愛しさを注げるよう祈って。




(その願いは、祈りは、呆気なく消え去ってしまったけ れ   ど    )











(090105)
(090203)