何なんだ一体。
僕はこの時間帯にこの道を通って帰ることにそろそろ苦痛を感じていた。
この時間帯―爽やかで晴れやかな抜けるような蒼を塗り潰すような暗い紫が押し寄せ、しかし街灯が灯るか灯らないかの瀬戸際、いわゆる逢魔ヶ時に、家の程近くにある廃された工場跡地を通らなければ、僕は家に帰れない。当然、工場に電気は通っておらず、ただでさえ通り魔とか辻斬りとかにうってつけな薄暗い道は更に暗く、荒れ果てた工場は黒々としていて不気味ななにかを内包した無機質なオブジェのように見える。
僕自身の名誉のために言うが、僕は特別怖がりというわけではなく、もっと言えば幽霊の類を一切信じていない。いないのだが…。


(また、いる)


恐らく工場で一番高いであろう剥き出しの鉄骨の上に、人影がひとつ、何をするでもなく足をふらふらさせている。僕はここ数日と変わらないそれを見て、こめかみを押さえた。
鉄骨にのぼるための足場は、少なくとも僕からは見えない。あの人影はどうやってあそこまでのぼったのだろう。もしかしたら僕は、今までの幽霊の不在という掲げてきた信条を撤廃して、あれを幽霊と受け入れた方がいいのかもしれない。精神的に。
人影はふいに立ち上がり、両手を軽く広げてその足を一歩、空中に進めた。


「えっ」


(落ちる!)


あんな高さから落ちれば怪我ではすまない。命の危険だって!
僕は手に持っていた鞄を落とした。
人影の着ている服が風邪にあおられて、人影が両の足を宙に投げ出して、だんだん、だんだん、その姿が地面に近づいて、


すたん、


綺麗に着地した。僕の目睫の間に。
おかしいだろう。あそこからここまで飛んでこられる距離じゃない。そもそも五体満足無事にいること自体おかしい。
頭の中を真っ白にした僕に、初めて間近で見た人影は陽気に声をかけた。


「よ」
「え、あの、えっと…」
「お前さ、最近ここ通るたびにずっとこっち見てたろ」


彼は学生服を着て佇んでいた。近くの高校の制服である。特に映えない面立ちで、きっと多くの生徒にまぎれてしまえるような普通の雰囲気だった。


「えっと…危ないですよ」
「は?」
「あんな所にいたら危ないじゃないですか」
「…あー、そう。そうか。…そうだな、気をつける。今度は人の見てないときにやるさ」
「やらないで下さい」
「何だようるさいな。視線がうっとうしいから近くに寄ってやったのに」
「…頼んでません」
「俺のこと幽霊か何かだと勘違いしてた奴がよく言う」


何故わかったのだろう。目を丸くした僕の顔を見て、目の前の彼ふてぶてしく笑った。


「そんなもんいるわけないだろう」


彼もどうやら幽霊を信じていないタイプのようだ。しかし、幽霊と並んで奇怪なことをしでかした彼に否定されても、あまり信憑性はない。幽霊擁護と揚げ足を取られそうなので、口にはしないが。


「あなたは人間ですか?」
「当然だ。ちょっと頭がおかしいらしいだけで、他は普通だ失敬な」


ずいぶん自虐的な言葉を吐いているわりに、目の前の彼にそんな負の感情は見当たらない。相当不審そうな顔をしていたのだろう。彼も少し笑みを控えて僕の目を見る。
不思議な目だ。別段すぐ印象づけられるような特徴なんてないのに、よく見れば人を惹きつける澄んだ色がある。僕はじっと微動だにせず彼を見続けた。


「あなた…何ですか」


若干僕より背の低い彼はちょっと目を丸くして、考え込むようにしてやや目を逸らした。


「何ですか、か…。曖昧でどういう答えを求められているのか、よくわからんな」


眉を寄せて一頻り唸ったあと、彼は足元に落ちている僕の鞄に目を留めた。


「人間の脳がどれくらい使われているか、知ってるか?あとちょっと手のひらを上に向けてくれ…そう、そんな感じ」


彼は僕の手を軽く開いて上を向かせた。ちょうど、何かを差し出すか受け取るような格好である。


「一説では三分の一も使われていないと言われています。まだ解明されていない部分も多々あり、解明されれば我々人類の進化の過程や心理的メカニズムもわかる可能性がある、とも」
「模範的明察をどうも」


皮肉なのかよくわからない相槌が返ってくる。
彼は僕に 「そのままでいろよ」 と釘を刺し、少しゆっくり後ろに下がる。僕の視界に彼がすっぽり入る頃、ようやく彼は足を止めた。


「なに、」
「要するにだ、脳みその使ってないところを使うと、こういうことができるようになるんだと」


僕の足元にくたびれたように落ちていた鞄がふわりと浮き上がり、取っ手が開いた僕の手のひらに引っかかる。
…マジで?


「今のは一体…」
「中学の物理であったろ?力の作用はベクトルと大きさと…あー、あとひとつ何だったかな…とりあえず今のは重力のベクトルと大きさを調節してやっただけだ」
「だけって」
「俺は脳のことなんて知らんぞ。ただ、脳がちょっとおかしくなったからこういうのができるって経験があるってだけで」


僕の沸き立った好奇心を察したのか、苦々しい顔をした彼は首を振る。
手にずっしりかかる鞄の重みが、今しがたの現象が現実だということをまざまざと思い知らせる。


「あなたは、何、ですか」


ぽんと地を蹴り、彼は僕の近くに立つ壊れた街灯に「着地」する。必然的に彼は垂直となって僕を、見下ろすことになるが、どうやら彼は三半規管を慮らないらしい。彼が地球のあらゆる法則を無視したのを目のあたりにした数は、出会って幾許もしない内に鰻上りとなっている。
彼は僕を見下ろして笑った。薄紫の影が差して、得も言えない畏怖に似たものが腹の底から沸々と出てくる。
彼は言った。


「超能力者ってことで手を打たないか?」


どういう取引の持ち掛け方だろう、それは。
彼は街灯から飛び立つと、黒い崩れた積み木のような工場の向こうへと消えていった。




(080719)