「ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アー、ハー」
「あ、あの…何をしておいでですか?」
「エー、ゲー、ツェー、デー…うーん、回音はイ短調気味だな。よ、古泉」


後ろにいるであろう古泉に手を振り、楽譜に変記号を書き入れて弾き直す。作曲に使うためにわざわざ買ったキーボードの周りには書き直した楽譜が波のように折り重なって散らばって足の踏み場もない。しかして今、俺が聞いているMDは、古泉が依頼してきた作曲のコピーではない。邦楽の中でも有名な曲を、耳で聞いて楽譜に写し取り、弾いているのである。何となく、ふと無性にやりたくなる遊びだ。
説明してやると古泉は情けない顔をした。


「あなた…何でそんな音楽肌なのにコラムニストなんかになったんですか」
「俺みたいな半端者が続けてやっていけるほど、音楽は甘くねぇよ」


4年間で理解した、その世界にある階段の急勾配さ。そもそも始めっから敷居が高いにも関わらず、何の間違いか俺は実技までパスしてしまったのだ。谷口も国木田もこぞってエイプリルフールはまだ先だと笑って冗談ととるほど、俺と楽器の組み合わせはおかしいらしい。聞かれなかったし授業もなかったので誰にも言わなかったが、これでも中学の終わりまで妹に付き合わされてピアノを習い、辞めた後もCDの曲をこっそり譜面に起こしてみたりもしていたのだけれど。
それを聞いて古泉は泣きそうな顔でうつむいた。


「あなたって人は…才能をゴミ箱に投げ捨てているようなものじゃないですか。もったいないですよ」
「俺がどこに就職しようと関係ねぇだろ。もう過ぎたことだし、別に音楽からそう遠くなったわけでもねぇしよ」


MDを一時停止してまた譜面に音符を書いてゆく。ふと思い当たり、その手を止めて古泉を見た。


「何でお前が俺ん家にいるんだよ」


古泉は渋面を作って背に背負っていた荷物を見せた。
あれ、今日だったか。










古泉が楽器を教えて欲しいと騒いだのは、もう一ヶ月も前のことだった。
次の新曲の打ち合わせに顔を出したとき、あの弱り顔で古泉が言ったのである。


「僕に、ギターを教えて下さい」


はァ?
そのときの俺は、鼻にしわを寄せて聞き返したのだと思う。
前回のハードロックに続き、またぞろ事務所が無茶を言い出したのか。そう尋ねると古泉はふるふる首を振った。奴の香水だろうか、シトラスの匂いが俺の鼻をくすぐり、むずがゆくなった。
やべ、くしゃみでそう。


「今回は僕のたっての希望です。作曲に加えあなたにこんな負担を負わせるのは大変心苦しいです。ですが今回の収録にあたり、TV局から出演の依頼が来たんです。前々からこちらも申し出ていたところだからすごく嬉しくて…」
「っくしょ」
「聞いてますか?」
「悪い」


顔を上げたとき、古泉の顔つきが変わっているのに気づいた。
情けないハの字だった眉が戻り、目がぎらぎら瞬いている。それは、野心に輝いた人間の目だった。
正直俺はやや古泉を見直した。歌に対する熱意は大したものだが、騙し討ちのようなもので俺を作曲担当に担ぎ上げたという負い目を感じているのだろうか、いつも腰が低い。依頼を与える側と依頼を請け負う側では当然前者の立場が強いのに、打ち合わせで俺の顔色を窺うような物言いで近頃辟易していたところだ。
仕事にプライドを持つのなら、他人に迷惑をかけることになろうとも妥協はしてはいけないということを、古泉は知るべきだったのだ。
生憎、引き受ける気は毛頭ないが。


「…俺なんかに頼むより、事務所に申請すればもっと良い講師を呼べるだろ」
「順当ならそうした方が良いでしょうけど…」
「それに俺、上っ面を舐めただけのようなもんだから、そんなにギター弾けんぞ」
「え?」
「ん?」









という遣り取りを経て、さわりだけを教えることになったのを、俺はすっかり忘れていたのである。もちろん別手当てをもらうことで話はついている(でなければ誰がこんな面倒事を受けるか)。


「ギターに触ったことは?」
「お恥ずかしい限りですが、撮影の小道具としてしか」
「ふーん…今回は俺の曲じゃなくていいんだな?」
「ええ。これ以上お手を煩わせるのは気が引けますし」
「そーかい」


俺の本業はそっちなんだがな。仕事にけちをつけられたようで何だか面白くない。
古泉がバックから出したギターを受け取り、チューニングを始める。ブロックフルーテ(縦笛・リコーダー)だってチューニングが必要なんだと言ったら、古泉は目を丸くした。大丈夫だろうか。
ギター程度なら窓や扉を閉めれば隣近所に迷惑はかからないだろう。俺は散らばっている楽譜を適当に片し、椅子をひっぱって古泉と差し向かいに腰掛ける。


「言っとくが、キーノートだけ弾いてりゃいいってわけじゃないんだぞ」
「…キーノートって何ですか」
「主音。お前が歌う音だよ」


ていうかそっからかよ。


「それで、ギターではどこを弾けばいいんですか?」
「たいてい回音を弾くことが多い。そうだな…ほら、楽譜の三段目から下のどれか」
「…なんですか、この音符の多さは…」
「回音っつーのは主音をごてごて飾る音だ。主音を入れた3つなのが一般的だな。例えば主音がドだったら回音はドミソになる。一度にはじいてもいいし、ドとミとソの順さえ崩さなければドミソだろうがミソドだろうがソドミだろうが好きに繰り返してもいい。ほとんどの場合が弾き手のフィーリングでころころ変わったりするんだが…って古泉、聞いてるか?」
「ええ、と。やれるだけやってみます」


力なく古泉は笑った。その情けない顔はあまりに痛ましいので、譜面に弦を押さえる指番号を書いて譜面台に乗せてやった。仕草のそれが犬のようで、つい頭を撫でてやりたくなるのは俺の悪い癖かね。
正直古泉がギターを選んでくれて、教える立場からしてみれば、けっこう助かっている。ギターは弦をちゃんと押さえて弾けば音は出るが、ピアノを両手で弾くのに慣れるのは少なくとも数週間はかかる。今もどうやら他の仕事を蹴って練習時間にあてているようで、時間に余裕はない。
何でそうまでしてギターにこだわるのかは知らないが、早々に音をあげないところを見ると、わりかし本気のようである。一体何がそんなに古泉を駆り立てるのやら。


「わあ、ちゃんと音が出ました」


そーかい。そりゃ良かったな。









乾杯、と無駄に声高な音頭を取ったのは、今回の功労者たる古泉であった。ついでに、その手にあるグラスは空だ。既に出来上がっている古泉を見て、俺は頭を抱えた。
おかしい。無事に収録が終わりましたありがとうございます良かったら僕の家で打ち上げをしているのでいらっしゃいませんか、と電話越しに聞いた奴の声は、まだこんな、酒精で盛り上がった舌っ足らずな声ではなかったはず。
俺は顔色ひとつ変えずに無表情で杯を傾けている長門の前にある、ガラスのテーブルをうんざりして眺めた。俺が来たときにはもうこの二人しかいなかったので一体何人いたのかは知らないが、それでもテーブルから溢れるほどの缶やビンは明らかに一人当たりの摂取量の限度を超えてしまっている。俺の実家はある程度未成年の飲酒に寛容だったが、さすがにこの有様には眉間のしわを禁じ得ない。


「長門。俺は打ち上げなんて名ばかりの飲み比べに呼ばれた覚えはないんだが」
「彼に再三注意をする人間がいたときは、彼はまだ素面だった」
「てことはこいつ、大方が帰った後から羽目外しやがったのか」


首の据わらない赤ん坊のように、ソファの上でぐでんと体を揺らしている古泉は、いつも以上に締まらない顔で笑っている。にきびなんかに悩んだこともなさそうな、つるりとした肌はアルコールのせいで見事に赤く染まっている。


「長門たちは明日の仕事はいいのか?」
「彼は午前中まで半休」


持っているグラスが空いたのか、長門はすっくと立ち上がり、荷物を持って玄関に向かっていった。その足取りは淀みなく、つい先程まで酒を飲んでいた人間とは全く思えない。どんな分解酵素を持っているのか。


「送るぞ」
「いい。それより、彼をお願い」


渋面でソファの上を見ると、何とも幸せそうな笑い声をあげている古泉がいた。うわ、相手にしたくねぇ。


「彼があそこまで酔うのは珍しい。よっぽど今回の収録が成功したのが嬉しかったよう」


そういえば、出演の依頼が来たってときも、すごく嬉しかったとか言ってたっけな。
玄関先の見送りすら断って、長門はすたすた帰っていった。後を頼むためだけに俺を5駅分も遠い家から呼び寄せたんじゃないだろうなと勘繰り、転がっている缶やビンを適当にまとめる。分別なんか知らないね。明日起きたこいつがやればいいんだ。


「キョンくん」
「あ?」


普段は絶対呼ばない俺のあだ名。振り返るといつの間にか体を横に倒した古泉が、緩みきった顔で楽しそうに笑っていた。眠そうにとろけた声が酒臭い息と共に吐かれる。


「ぼく、ぼく、もうすこしギター、つづけてみるつもりです。いつかちゃんといっぱいひけるようになったら、キョンくんにつくってもらったきょく、うたえたらいいなァって、キョンくんいつも、ありがとうございます。いつも、いつも、いいきょく、たくさん、こんどキョンくんにうた、つくりますね」


この酔っ払いは、子供みたいな顔をして、なんてことを言うんだ(いや、実際まだ未成年だけれど)。
こんな酔っ払いには付き合いきれん。さっさと片付けてさっさと帰って寝てしまいたい。















有効カード一枚!
(いい曲って、いい曲って何だよ)
(くそ、恥ずかしいこと言いやがって!)
(おやすみなさい、キョンくん)





(080607)