俺はとりあえずあの日のことを忘れることにする。
あの日とは、俺が人間でなくなった期間のことである。どうやらハルヒがまたろくでもないことを願い、しかもその対象が俺という、完全なる巻き込まれ型としてこの摩訶不思議な上なかなかできない経験にありつけたというわけだ。こうして俺は非凡に関する対応のバリエーションがまた広がったという事実に、現在進行形で打ちひしがれているのである。
今はもう目も赤くないし、景色が見えづらいということもないし、血を渇望することもない。長門のおかげで生活に支障を来たさないいつもの俺に戻ったのだが、なかなかどうして、諸事情により故事成語のような立つ鳥後を濁さずというわけにはいかない。戻った手段が悪すぎた。
「さあどうぞ」
「さあどうぞって…お前な」
にこやかな顔で腕を差し出されても、嬉しくない。とても。
もっと(俺の精神的に)良い打開方法を長門に求めるも、長門はすでに俺の反応を待つばかりとじっと目線を向けてくる。朝比奈さんはまだびくびくしているし、古泉も乗り気(なぜだ古泉。どういう風の吹き回しなんだ。お前の脳内回路おかしいんじゃないのか)で俺に筋張った腕を差し出している。
そんなとこに歯が立つか。せめて肘の辺りならやり易いものを…あれ?もしかしなくとも俺まで乗り気になっているのか?
古泉の腕を手に取り、骨の位置を確認する。できれば骨に行き当たった感覚はご遠慮願いたい。
「…だめだ。外側からだとどうしても骨に当たっちまう」
「内側ならいいんですか?」
言うや否や、古泉は袖をまくった腕を広げる。確かにそれなら内側に歯が充てられるが。しかしこいつ何気に筋肉ついてるよなぁ。
結局肘まで袖をまくらせて、俺は頭する間も遠慮もなく古泉の肘に噛み付いた。噛み付かれたときの痛みなんて、そんなものは古泉当人に処理させればいいんだ。日頃の恨みをぶつけるつもりは…多分ない。と思う。
古泉はいきなり歯を立てられたことに吃驚したのか、俄かに息を呑み、けれど声はあげずに腕に力を入れただけだった。男気あふれるのはかまわないんだが、腕に力を入れられると筋肉がしまって頗る飲みにくい。
「…、吸血鬼というよりも、どちらかといえば獣みたいですね」
「ふわぁ、痛そうですぅ」
朝比奈さんが若干青褪めた表情で覗き込んでくる。
朝比奈さんにしなくて良かった。すぐに気絶してしまうような人だから、噛まれた瞬間にでも失神してしまいかねん。さすがに気絶した朝比奈さんから血液を搾り取ろうなんて非人道的なことにまでは及びたくない。とりあえず古泉は黙れ。
姦しい解説がなければ、癪なことに古泉の血は美味かった。初めて他人の血を飲んだのだからその是非はわからないが、長門からもらった似非血液よりは濃い味がする。血に味の評価をつけるのもおかしい話だけれど。
と、長門が俺の背を撫でた。え、そんなやり方なのか、と呆然とするも刹那、横隔膜が変に痙攣し始めた。体が血を拒絶しているのだと気づき、半ば古泉の腕を投げ捨てるようにして洗面所に顔を伏せる。ここ数日まともに食事をしていない俺の吐瀉物など、当然の如く先程飲んだ似非血液と今飲んだ古泉の血液だけで。惨劇発生。フロイト先生も驚きだぜ。
「う、ぐ、…まっず」
「改変は終了した。伸びた犬歯も虹彩も、元に戻ったはず」
鏡の前で上唇を押し上げる。平均的な長さかどうかは知らないが、とりあえず唇を傷つけるほどの長さではなくなった。洗面所を洗い流す。しばらくは刺身もトマトジュースも口にするのは勘弁だ。忘れていた飢餓感と吐き気が相俟って気分がどん底に悪い。
「でも美味しかったでしょう?僕の血」
五月蝿い。気持ち悪いのに更に気持ち悪いことを言うな。肘をなめるな。清潔な布で拭け。
「まあ、犬に噛まれたと思います」
そうかい、俺は犬畜生と同じかい。
古泉はさらりと笑った。
以上のような経緯により、いい思いをしたことがないここ数日の出来事に対して、俺は全て忘れることにした。何が嫌って、時折思い出したように傷跡の残っていないはずの腕を撫でる古泉の顔がこの上なく幸せそうなことだ!
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(08.01.09.)