「実は凉宮さん、数ヵ月前から交換留学でこの日本にいません」
古泉の言葉は、折り目正しく人数分のコーヒーを煎れようとした俺の手を一瞬鈍らせるだけの、それくらいの価値しかなかった。高校の彼女の様子から一向に進歩が見られないときは、まあもしかしたら日本にとどまらず広い海外にでも行くだろうな、なんてぼんやり考えたことがある、程度だが、予想できなかったわけじゃない。そうかと一言だけ流しに捨てるように言ってコップにコーヒーを注ぐと、驚かないんですかあなたは、と古泉がどこか途方に暮れた子供のような所在無さげな声をした。何て声出しやがる。
「じゃああなたは予想できたというんですか」
「有り得ない話じゃないだろ?不思議な事象をこの上なく渇望してたあの女が、いつまでも狭い日本の土壌にのさばっているはずないさ」
「なるほど」
古泉は少し安心したように息を吐き出した。疲れた様子を見せながら、まるで慣性で止まらないとでも言うのか、ため息混じりの声がする。
「僕はもう、ほぼお役御免といった状態です。朝比奈さんや長門さんは勿論監視続行のため、共に行ったようですが、生憎僕はストックがある、替わりが効く」
その自虐的な言い方止めろよ。
「気に障ったなら謝ります」
俺の横槍にコンマ一秒で返すな。ろくろく実のない謝罪には一切興味などない。
「だって」
だってじゃない。
俺は腰の低い卓に叩き付けるようにコーヒーの入ったコップを置き、フォーマルスーツを脱ぎ捨てネクタイをほどきかけた。ふと奴を見返すと、手持ち無沙汰にふらふら立っていた奴は、まだふらふら立っていた。そして漸く彼も濡れていることを思い出す。
「悪ぃ、タオル」
「あ、ありがとうございます」
触った古泉の手は、胃が中でのたうつほど冷たかった。ほどきかけたネクタイを掴むと、奴が肩に手を宛てる。奴の目を覗くと微かに劣情を催したような色がある。
「待て、何の冗談だ」
「少し、黙って頂けます、か」
なんだその傍若無人さは。
奴が肩口で息を吐き出すと、濡れて冷たいシャツに生温さを感じていけない。直接下半身に繋がるような掻痒がじくじくうずくのを知って俺は絶望した。はーい、お触り禁止、と今は縁の遠退いたキャバクラなるものを思い出した。ああいうストップの仕方は女が男に言うから有効なのであって、今まさに首を甘噛みする男を止める方法はあって無きに等しい。というか、顔が近い!といくらでも理由をつけて殴ってでも止めなければならないはずが、どうもタイミングを違えたらしく、俺の腕は一寸たりとて古泉に向けて動かなかった。それもこれもこいつが泣きそうな顔をするから、
「あなたが進学ではなく就職希望と知ったときから、凉宮さんは何かを諦めたようでした。正直僕は閉鎖空間が頻発しやしないかと冷や汗ものでしたが、予想されたよりもずっと規模の小さいものが二、三発生しただけですみました。彼女にとって、あなたは得難き理解者だったはずなのに」
「………それは、あいつが欲求にひた走る子供じゃなくなっただけのことだ。人間年を重ねれば誰しも価値観が変わる。そういうものだろ」
泣きじゃくる迷子から名前や住所を聞くような徒労を感じた。いっそこちらが迷子のような心境だ。何が悲しくて俺はこいつをなだめて、いや、何に憂いてこいつは俺を抱いてるんだ。やば、改めて今の状況に鳥肌が。
ん?
「あ、わかった」
場違いな声をあげた俺に古泉はきょとんとしたが、俺はとりあえず古泉の腹に膝を突き立てた。まさか時間差で反撃がくるとは思わなかったのか、古泉はくぐもった声をあげてベッドに倒れ込む。肩に奴の熱が付着して気持ち悪い。両腕をさすさす、俺は腹を押さえて呆然としている古泉の足を軽く蹴った。
「お前さぁ、何だかんだ言ってその超能力を捨て難いんだろ」
「な、にを」
「だってお前、自分の目の届かないところで、知らずハルヒに存在を否定されるのが怖いんだろ?『やっぱ世の中つまんないものね』とフラストレーションのたまったハルヒが発生させた閉鎖空間で改変が起きる可能性は今やかなり低いようだが、何らかの理由で『超能力者』っていうカテゴリにデメリットを見出し、超能力者だけ削除される可能性はまだなきにしもあらずさ」
古泉の真ん丸く見開いた目が、じわりと潤んだ。あっという間に涙が溢れる。おい布団汚すなよ。
「あなた、相変わらず酷い人ですね」
「そりゃ心外だ。少なくとも美人の女には優しいつもりだが?」
「酷いですよ。先手を読んで一縷の可能性をも潰し、ないがしろにされた好意に対して非道だと泣くこともさせない。ないがしろにされたと思う前に、あなたは好意を踏みにじる」
「難しいことはわからんし、俺には心当たりのなさすぎる非道っぷりだが、それは万人共通の定評なのか?だとしたらかなり凹む」
「凹めば良い、あなたなんて」
「何にしろお前が少々疲れ気味なのはよくわかった。その理解できん発想は夢として付き合え。今なら一晩ベッドを占拠されようが目を瞑ってやる」
すんすん、と鼻を鳴らして、一緒に寝て下さいと懇願する小さな声を無視して、すっかり温くなってしまったコーヒーを飲み、さてどこに体を横たえたものかと思案する。悪いが凹めば良いなんて言われて一緒に寝てやるほど、俺の度量は広くない。
いえなしご#02