ああ見つかった。
Memento・mori
この、人としては場違いな能力が目覚め、その凡その輪郭が見えたとき、僕は絶望と深い失意に暮れた。
このちからの厄介なところは、即時的な証明ができないことである。何よりあの灰色の空間で道理のわからない子供のようにこちらの思惑など意に介さない様子であの青い不恰好な人形のような物体が暴れる場所で、連れてきた人間の安全が保障されることなどありはしないのだ。
いっそ陽狂と見られてもかまわないから、あの場所で起きる事象、それに纏わる恐怖を誰かと共有したかった僕は、寂寞とどうしようもない虚無感から脱却すべく足掻こうとする意志と、拒絶を恐れてどこか線引きに厳しくなる意志の二律背反に苛まれていた。当時の自分は中学生という義務教育すら終わっていない、自己主張の激しく矜持が高い子供であり、臆していたのだろう、生憎ラインを踏み割るに至れなかったけれど。
正直機関という組織が現実にあると知ったとき。傲慢にも、大人が纏めているくせにどこまで神とやらの玩具に成り下がっているのかと不甲斐なく思い、また、憤慨もした。森と名乗った女性の笑みがあまりにも冷たく、口にする勇気は終ぞ湧き出なかったが、大の大人がこのザマでは、はっきり言って僕はお呼びでないのではとも思う。その認識はある種外れていない。
僕は自分の生白い手首を見た。ごつごつし始めた掌を這い、縫ったように走る青い血管に吐き気を催す。一時期この手首を掻き切って薄皮の下を流れる血の巡りを止めようと本気で思った。しかし刃物が手首を滑るそれを想像しただけで、僕は目頭を押さえて情けなく項垂れたのだ。生への執着か死への畏怖かも曖昧な、けれど涙腺を大きく揺さぶるには十分すぎる激情は、ただただ訳もなく流した涙と一緒に流れてくれるほど軽くはなかったようである。所詮自殺の真似事では生きていることを痛感するのが関の山と気づいた僕の手には、手首を傷つけ、若干切れ味の落ちた血を纏わせたカッターナイフがあった。
*
彼は僕の手を掴んで眉根を寄せている。いつもの顰め面ではなく、棘を帯びた剣呑な表情をしている彼を見とめ、僕は今更ながらしまったと内心で舌打ちする。どうやら彼も見逃すつもりが反射で僕の腕を手に取ったようで、苦虫を噛んだよりも渋い顔をしていた。
「…古泉」
「はい」
彼に見られてしまった。 (それがどこか嬉しい)
いつもしている時計をうっかり彼の前で外してしまった自分の迂闊さと、もうあまり痛々しさの残らない古傷を見つけた彼の目聡さに苛立ち、次いで彼になんと言われるのだろうと慄いた。だって彼は恐らくこんな自傷行為とは縁遠い生活を送っていたに違いないから。
もうするなと怒られるのだろうか?それとも自傷に至った経緯でも気にしないような素振りで訊いてくるのだろうか。
「…古泉」
「はい」
まるで彼が掴んでいる手首の持ち主が果たして僕なのかと疑いでもしたのか、先刻から彼はもう一度念を押すように僕の名を呼んだ。いつもの投げ遣りかつやる気のない呼び掛けじゃなく、珍しく声が硬い。目がちゃんと僕を見ている。僕は嬉しい。
彼は言葉を選んでいるようだった。ゆっくり口が開閉して、僕を成る丈傷つけないように言葉を捜している。
確かに僕が普通の同級生と変わらない立場だったら、言い様によっては対人関係の斬砕か、一生に関わるトラウマを作ってしまうかもしれない。他人を慮ってやれる彼は、そう気取らないだけでとても優しい。
「見ちまったもんに俺は何かを言ってやれるほど偉くもないし、正直言って何かを言おうとしたところでお前のプライドに障るだけかもしれん」
「わかっていますよ。涼宮さんにはくれぐれも内密にお願いします」
彼はきゅう、と更に眉に渓谷を作った(そろそろ楊枝くらいならば挟めるのではないだろうか)。僕のおどけた口調に気を悪くしたのか、はたまた僕があまりに頓着していないように見えたのか。
「古泉」
「はい」
「見たことに関して今更言い訳はしたくない」
「? はい」
「だがな」
彼は一体何が言いたいのだろう。彼はもう僕を見ていない。僕の隣に親の仇でもいるような険しい顔をして、口の中で唸っている。
「俺の前で、鬱陶しい気を遣うくらい、なら、時計なんか外しちまえ」
彼は僕を見ずにつっかえつつも言い切る。その顔は抹茶の粉を鼻から入れたように歪んでいて、お世辞にも何か励ますようなものとは言い難い(それは彼も望むところだと思う)。歯を剥き出しにして、ああ言っちまったとつぶやく彼。大方面倒ごとはごめんなのに何で、とでも考えているのだろう。つくづく他人を最後では見捨てられない人だ。
ああ、彼は優しい。
「見事なまでのお人好しですね」
「おかげさまでな」
皮肉の応酬は少しでも、今し方行った偽善染みた行動を嫌悪する彼の自責を取り除くことに一役買えただろうか。そうならば良いと思う僕こそが偽善者だ。
見られたのがあなたで、良かった。
そう言ってしまえばまた彼にいらない重荷をかけてしまうだろうから、僕は黙って時計をはめ直す。
全てこの傷にしまっておこう。
(080109)