初めて。
初めてギギナが焦ったような顔をしたのを見た。
いつも腹立つくらいに余裕綽々な様子で物事を達観していた彼が、ただの一度(たとい命が秤に乗っていたといえど、)寝技で肩から腕を破壊されただけであんな焦燥に染まった顔をしたのを、ガユスは初めて見たのだ。いくら咒式で治癒できるからといって、しかし彼の表情は安楽よりは寧ろ絶望を象っていた。殺されるという恐怖、敵わないという悔恨の念がまざまざとその面表に映る様は、本人よりもガユスに打撃を与えた。
ガユスは弱い。安定し難い精神はもとより、ギギナに培われたと言って差し支えないガユスの咒式の知識が、ギギナをあのような窮地に追い遣ったユラヴィカに敵うはずもない。
咒式の到達者たる十三階梯に及んだとはいえ、それが咒式士の限界ではない。現にレメディウスやラキ兄弟の片割れのように、知覚眼鏡で計った実力はありもしない十四階梯の数値である。ユラヴィカは間違いなくその上を行く。
死ぬのか。殺されるのか。
あのままユラヴィカが退かなければ、と最早他人事のことに思う。ギギナはギギナであれを獲物と定めぎらぎらしている。
全く、脳内分泌麻酔が効きすぎているのではないだろうかと勘繰るほど、彼は戦闘好きだ。いや、彼に限らずドラッケン族は総じて素敵に強い者との戦いを好むようである。例に漏れず、ユラヴィカは強い者を同胞として殺し、一族を追われた身らしい。
どうして穏便に世界平和を願えないのかと以前呆れながらギギナに尋ねたら、高貴な我がドラッケン族はそのような詭弁に染まるほど落ちぶれてはいない、と嘲笑つきで返ってきた。野生に還りたいのだと納得するが、強ち一概には言えないものだ。
「さて、どうしたものかね」
背中を突き刺す視線。その中に悪意や害意や殺意なんて物騒なものが混じっていなければ、女性の熱烈な視線と勝手なご都合主義に任せて、さっさと無視しても良かったのに。
俺ってとことんついてないと涙しながら人気のない路地裏へ足を伸ばす。寄り付く人気の気配が完全に消えた瞬間、ガユスは身を屈めた。
ガツン、と重たい音がして煉瓦が抉れる。ちょうどガユスの首があった位置である。
「……っ、」
降り込む砂塵に頓着せず、そのまま後ろへ転がる。マグナスを手に取り煉瓦に突き刺さった刀から伸びる白磁の腕を見据えた。刀、屠竜刀を持った戦鬼は、今しがたの一閃が何故避けられたかわからないといった様子で首を傾いだ。
「…ふん。少しはギギナの隣に立てる資格があるということか」
「俺のポジションが羨ましいなら今すぐにでも変わるけれど?」
寧ろ願ったり叶ったりだ。ガユスは下手に強がり笑ってみせた。
悲しいかな、相棒という相関に関わらず、ギギナは屠竜刀ネレトーの切味を、ガユスで試そうと常日頃から画策している。全長2450ミリメルトルもの大業物は、振り被るよりも横薙ぎに払う方が初動作の隙がない。対してユラヴィカの屠竜刀も同じような長刀である。ドラッケン族の無茶苦茶な膂力が常識を無視しなければ、ガユスにも手の内は読めた。しかしタイミングが狂えばどのみちガユスの頭部と胴体は永遠の別離を迎えることとなったに違いない。背筋が恐怖で伸びる。
「汝の首でも手土産にすれば、ギギナの実力以上の力も引き出せようものを」
「お前らの価値観を俺に当てはめるな」
魔杖剣ヨルガ。魔杖短剣マグナス。ガユスの装備は変わらぬものであったが、それでもこの異常な殺人鬼を相手取るには決して十分とは言えない。即時展開できる低階位の咒式では防がれるかいなされるかがオチ、第七階位の禁咒式なれば勝機はあるが、自分を含め広範囲に被害が及ぶ上に咒式の展開に時間がかかるため、ガユス一人が戦うには不向きだ。後衛のガユスはギギナのような即戦力を持っていない。二人で漸く互いの不足を補えるのだ。
「飽くまで坑うか…脆弱な人間風情が」
「脆弱な人間風情、な…」
どうしてこうもギギナと似たようなことばかり言うのだろう。思考が似通っているからなのだろうか。
冷たい鋼の双眸がガユスを射抜く。腕の側筋がわななく。どいつもこいつもやたら造形ばかり秀でやがってと睨めつける。そうでもしないと正気が保てない。
「私を睨むか。面白い」
「こっちは面白くないね」
最高に。
「大体、俺の首よりもあいつはお前に興味があると思うけどな」
ガユスの惨殺死体とユラヴィカが並んでいれば、ギギナは間違いなくユラヴィカに切りかかる。ガユスが生きていれば、あわよくば、とまとめて切り捨てるに違いない。ギギナはそういう人間だ。手加減なしを彼らはドラッケン族の誇りと言うが、ガユスに言わせればもう少しその活力を他に回して欲しい。
嫌いだ、何もかも。
「汝はギギナの相棒だろう?何故そう思う」
「生憎あいつは俺をそんな上等に見てないぜ」
彼がガユスを何と呼んでいるのか教えてやりたい。「眼鏡の台座」だと?既に眼鏡の付属品扱いだ。人権というものが、彼の巨躯に比べて笑えるほど小さい脳味噌には存在していないのだ。
ユラヴィカは睥睨した。ガユスの言葉を明らかに認めていない。
「ならばやってみるか?」
「慎んで遠慮する。仮にあいつが狼狽えるならその情けない顔、見たいしな」
ユラヴィカの眉間が不愉快げに歪む。同じドラッケン族として刀を合わせたギギナに、少なからず、一目置いているのだろう。お前が軽々しく嘲弄して良い道理はないと言いたげである。ガユスは鼻で笑いたくなったが、まだ生き残れる手段が確立していない内に奴の逆鱗を逆撫でするつもりはない。間断なく押し寄せる殺意の波に歯を食い縛る。
怖い。
「ギギナはどこにいる」
「さあな。少なくとも、ここにはいないみたいだが?」
見え透いた虚勢に、ユラヴィカは何の感慨も写さない。ただ達観しているような、いっそ哀れむような顔だった。くだらない感傷は、ドラッケン族のするところじゃないはずなのに。
「お前の首を掲げ、界隈を練り歩くも吝かではない」
「ドラッケン族は駆け引き下手なのかね。言っただろう、そんな非効率的なやり方じゃあいつは釣れない。あいつは、相棒とは名ばかりで俺のことなんて雑用係としか見てないさ。家具よりも順位は下だぞ」
これを機に今までの理不尽なまでの暴挙を並べ立て、裁判を起こしても構わないとさえ、考える。しかし眼前のユラヴィカからどうやって逃げるかもまだ曖昧なのだから、機会は当分先と見える。
ガユスは魔杖剣に補填された弾数を把握、加えて第七階位の咒弾がないことを認識し、絶望に暮れた。やれやれ、矮小な人生はここまでらしい。
刹那意識が遠退いた隙を戦闘狂が見逃してくれる道理はなく、屠竜刀ゾリューデが今度は脳天めがけて強襲する。ヨルガを掲げて直撃は免れるものの、ドラッケン族の滅茶苦茶な膂力に耐えきれない凡人のガユスはよろめく。
「弱者はどうあっても弱者だ」
「全く、なっ!意見、が、一致すんのは、初めてじゃないか?、嬉しくねぇよ、畜生!」
足元が危ういまま、二合、三合と斬撃を受け流す。少しだけ、賞賛に値するのではないかと考え、そんな恐慌状態から生まれた歪な余裕を捨てる。なまなかな覚悟では、すぐに黄泉への片道切符を切る羽目になるのだ。
「ならば、せめて救われることなど願わないことが、汝ら脆弱な弱者の誇りではないのか!」
「誇り、で、何事も成し得た気になってんじゃ、ねぇよ!」
異常である。ギギナも、ユラヴィカも。
倫理や心理といった人間が定義付けた良識を頑として否定する。闘争こそ彼らの娯楽、殺戮こそ彼らの生き甲斐。法だの人間愛だの、理性に抑揚された本能を拒絶する。『垂直に立つ刃であれ』、と、誇らしげにドラッケン族の諺を唱ったのは、他でもないギギナである。
理解できない。したくない。
「哀れな奴よ。ならば私とギギナの闘争の宴を汚す前に死ね」
勝手な言い分もあったもんじゃない。ガユスの脳裏に揺らめいたジヴの、白金の髪と碧緑の瞳に浮かんだ軽侮の色。塞がったはずの肩の裂傷が疼いた。
『一刻も早く死んでくれる?』
『貴様にはわからない』
ああそうさ、俺にはわからないよ。
ガユスは目を緩やかに細め、刀の軌跡を眺めた。
あんな感情的に怒る彼女は珍しいが、それにしたところで彼女の、女の機微を察してやれなかったのは、情けない哉、ガユス自身である。持っている価値観や信条が違うからこその他人だが、あまりに確立している彼女がとても眩しく、また、ガユスには苦すぎた。
一方、無表情のくせに激情家のギギナは、闘争を汚したといって、ガユスに刃を向けた。パートナーとして組んでいる内は、共闘を要求すると言ったガユスの目の前で突き立てられた刀を抱えたギギナの目は、敵を前にする以上にぎらつき、暗く淀んでいた。
今更死んだところで、何だというのだ。どうせ家族とは修復し難い溝に阻まれ戻ることはできないし、一番騒がしく、幸せだった日々は己で叩き壊した。一人ぼっち、だ。
ガユスは慣性で目を瞑った。
もう良い、終わろう。
瞼の下で暗くなった視界が、考えることを止めた思考が、一瞬真っ赤に染まり、暗転した。
*
頭が激しく横揺れした。
誰だよ畜生、俺は寝るんだって。いや、死ぬんだって。このまま逝かせてくれ。
意に反して瞼は薄らと開く。白い光が隙間から強く差し込み、反射により瞳孔が収縮し、大量に入ってくる情報と眩しさに、頭がひどく痛んだ。
「起きたか眼鏡置き場」
瞳孔が光を調節して尚、陽光をはねかえし、傍迷惑に輝く銀色にガユスは眉を潜めた。
「何だ。何でお前がいる。ならここが天国なわけないな。例え神の御遣いだろうとギギナの顔がいちゃ俺にとっては地獄だから」
「無神論者が何を言うのだ。いい加減使い物にならなくなったその頭に刃を突き立ててやりたくなる。貴様ならば無料で施術してやろう。私の優しさに感涙しろ。咽び泣いて跪け」
「刺さるなら俺の頭よりお前の方がお似合いだろう。どうせその頭、何も入ってないだろ?隙間を埋めてみちゃどうなんだ?」
眉を不機嫌気味に寄せたギギナがネレトーを掴んだが、何を思ってかその手を引いた。秀麗な顔は憮然と、筋の通った鼻梁には皺が寄ったままに、物言いたげにガユスを見つめているけれど。いつもと違う彼に、ガユスは器用にも片眉を上げてみせた。
何かが違う。感じる違和に首を傾げ、ヴァンに乗っていることに気が付く。
「なあ、何で俺はここにいるんだ?」
「覚えてないのか」
僅かに目を丸くするギギナから、ふと血臭が漂った。何故か腕が疼いた。何事かと揉んだが、真新しい痛みや傷はなかった。忘れているのなら、それが良いということだろうと低く苦々しげに、ギギナは呟いてそっぽを向いた。
やっぱりおかしかった。
*
ユラヴィカの屠竜刀ゾリューデは、ガユスの腕に食い込んで、上腕二等筋と骨を削って止まった。力任せに押し切れば腕はおろか、ガユスの胴など容易く両断できるだろうに、ユラヴィカは横薙に倒れたガユスを見下ろして嗤っていた。
神経が焼ききれるように熱く、痛みで狭窄反応が始まる。傷はまだ刀をくわえこんだままである。
ガユスは自失していた。ユラヴィカの眉間を跨ぐ蒼き蝶の刺青が歪む様を、とどめを刺さない理由を考えながらただ見入っていた。
「汝は愚かしいな。庇護の恩恵に気付かず、ただ不平ばかりを言う」
「俺が、ギギナに守られてるって…、言いたい、のか」
くすんだ路地のしなびた臭いに濃厚な血臭が混ざる。吐気を堪えるガユスの額に脂汗が滲んだ。
「愚か者は憐憫を誘う。今の汝のようにな」
「う、る、せぇ…」
暗くなりかけた視野はそのまま埋没してゆく。既に放棄しかけた聴力は、けれど懸命にユラヴィカの繋ぐ言葉を拾った。
「だからこそ弱者は愛惜しい」
聞かなければ良かった。
額に感じた形の良いであろう口唇の屈辱的なまでの感触に、ガユスは噛みきるつもりで唇を噛み、きつく目を閉じて意識を放した。
どうか目覚めた後が現の世でないことを祈って。