彼は猫が好きだ。
生まれ変わったら猫になりたいとさえ言った(国の化身であるところの自分たちが生まれ変わるということは、少なくとも国ひとつは傾くということだと、彼は正しく理解して言ったのではないのだろう。彼も彼なりに自国の民を愛しているから、そんな軽率な言葉を簡単に言ったりなどしはしない)。
確かに猫は気侭で自由で、そして何かに制約されたりすることはないのかもしれない。しかしけれども、と日本は思う。本当の意味で自由になれた日に、きっと日本は死んでしまう。気の遠くなるほど長い時間を制約によって生きてきた日本は、縄に支えられて崖からぶら下がっているようなものだ。制約という縄が切れたら、下の見えない真っ暗な奈落の底に落ちてゆくだけである。
無法地帯であった日本が生まれた当初、当時生きていた人間に近い生き物ですら、己を律し、周りを律し、群れになって寄り添った。人は孤独の上では生きていけないのだ。


「日本」
「あ…、はい、どうかしましたか?」
「眉間に皺」


縁側の軒先で猫と戯れていた彼は、猫を腕に抱えながら自分の眉間を指し、できてる、と若干舌足らずな拙い日本語で言った。


「顔色も悪い…大丈夫?」
「、ッ」


思わず額に手をやって眉間を隠したが、ギリシャは首を傾げてもう一度大丈夫?と言った。
日本はほんのり微笑む。


「すみません、少し考え事をしていただけです」
「考え事…今度の会議?」
「ええ、まあ…そんなところです」


先回の会議の収拾のつかなさといったらなかった。相変わらずどこぞの国は空気が読めないままだし、どこぞの国はそれにムキになるし、どこぞの国は何だか怖いことを提案するし、どこぞの国はシエスタに入るし、どこぞの国は起源がどうのとやっぱり空気が読めないし、どこぞの国は自分にばかり世話を焼くし、どこぞの国はそもそも議題を知っているのかすら怪しいし、と挙げればキリがない諸悪の権化たちに寧ろ少数派である真面目な国は揃って頭を痛めた。時間ばかりを空費してしまった今回を踏まえて次回の会議は実のあるものにしようと誓い合って終わったのだけれど。


「次もきっと、似たり寄ったりでしょうねぇ…」
「うん」
「せめて半歩でも進展すれば良いのですが」
「無理だと思う」


日本も同じことを考えた。
皆、我の強すぎる偏屈者ばかりだ。しかもどれも協調性が紙より薄い。


「ああ、アメリカさんも少しは場の空気ってものを考えてくれたら…」


空気に文字でも書いてあるのかい?と真顔で言い出しかねない。空気云々の前に語彙力を伸ばす方が先決か。
ぼんやりと日本が考えていると、ギリシャは腕の中の猫を放して飯間にいる日本の方へずり寄ってきた。そのままぽすっと正座していた日本の膝の間に頭を埋める。


「どうかしましたか?猫さんはもう良いのですか?」
「ん」


彼の顔は見えない。着物の裾からくぐもった短い声が漏れ、びりびりと空気と着物を震わす。
見ると今まで腕の中に閉じ込められていた猫は、固くなった背筋を思う存分に伸ばしているところだった。爪が床板を傷つけるという懸念を生み出すような、かしかしとひっかく音がする。


「日本」
「はい」
「今は会議の話、あんまりしないで」
「…わかりました」


いきなり告げられたギリシャの強く無茶な要望に、日本は軽く狼狽した。ギリシャの我が儘は夕飯の献立か、一緒に昼寝を促す程度の小さなものしか知らない。トルコを前にしたときの彼はもう少し攻撃的かつ挑戦的になるけれど、そんな声が日本に向けられるのは初めてだった。


「どうかしたんですか?具合でも悪いのですか?」
「大丈夫。具合は悪くない」
「ならいいんですけど…」
「日本」
「はい」
「日本は今、しあわせ?」


それはどうだろう。
日本は苦笑いをした。
色々科学が発展していって、半面それに付随したり発見されたりする問題も増えて、今の世の中は昔ほど生き易くない。昔は曖昧で、海に住んでいる鯨を魚と考え、神様は万物に宿ると考えられ、皆の法律は人の数ほどあったのに、今はまるで画一を潔しとする。もっと自由があってもいいのに。
深みにはまりそうだった日本は無理矢理思考をずらしてギリシャに微笑んだ。


「今このとき、この瞬間は幸せですよ」
「じゃあ、他のときは…?」


やっぱり、それはどうだろう。
気苦労の絶えないときなど、考えれば思い当たらないでもないのだが。
ギリシャは何だか不満そうな顔をしている。


「日本」
「はい」
「好き」
「ありがとうございます」


ギリシャの好きなものはたくさんある。もちろん猫もそれのひとつだし、綺麗な海やのどかな町並み、人間の温かな情。それは日本の好きなものでもある。日本はギリシャの頭を撫でた。ギリシャは小さく唸る。


「日本好き。全部好き」
「はい」
「だから他の国の話しないで」
「……、」


子供の独占欲だ。過去に経験のある日本はふと息を吐いて笑った。ギリシャはまだ不満そうな顔をして、今度は日本の肩口に顔を埋めた。
閑静な時間がゆるりと流れる。温かな幸陽に照らされ、日本はせわしない日の狭間に目を閉じた。




***

伝わらない気持ち。埋まらない年の差。(07.11.03)