日本は鋭く声を上げた。
「何をしにきたのです、あなた」
招かざる客と意識して強張った声。警戒する、視線。それでも立てないのであろう、布団から半身を起こしたままだ。彼の足は、原爆の、放射能の毒がまだじわりと広がっている。戦争はもう疾うに終結したというのに、(敗戦国の中だけでも)彼一人だけがまだ戦禍に追われているというのは、とても滑稽なことに思えた。ふと笑みが零れる。
「会議にまだ出られないと、アメリカ君から聞き及んでね。後ろ指が恐かったから出てこないんじゃないかと思ったんだけど、要らない詮索のようだったね。割と元気そうで安心したよ」
半ば侮辱を真っ直ぐに受けとめたのか、日本の眸が縦に割れた。そんなに瞳孔を開いてしまうと、夜盲症になってしまうのではないかと、これまた要らない詮索をロシアはしたことに気がついた。胸中でこっそり自嘲する。隙を与えてはいけない。
感情の機微に聡い彼は、その特異性を主に気遣いへと注ぐのだけれど、時折かさぶたを剥がすような暴利を働く。小さな傷に指を突っ込んで、左右に開くように傷を抉る。周りから見て大したことのない違和をあっさり日本は見抜く。通常その違和を気付かれぬ内に隠して支えてやる口述は、ともすれば主体性のない、大衆性へと見受けられがちである(その筆頭がスイスであった)が、ロシアはそんな惰弱とは違うと知っている。何せ過去に一度、彼を侮って手を噛まれたのだから。
「大概きみも強情だね。見ていて苛々する」
「それはどうも。あなたの神経を逆撫でするのに一役買えて光栄です」
暗にざまあみろと言われ、ロシアは小さく舌打ちした。勿論、顔はいつもと変わらず穏やかに。
日本の奥にある刀を見て、目を眇める。アメリカは日本の持ち得る全ての凶器並びに武器を没収したはずだ。こんなところに捨て置かれるようにされている刀に気がつかないはずがない。
日本の後ろを断りもせずに通り、鞘ごと刀を持ち上げる。鞘と鍔だけのレプリカかと思いきや、それにしてはいやに重い。僅かに鞘から抜くと、まろやかな曲線の銀色がぎらりと顔を覗かせた。
「…これはどういう趣向かな」
「何のことですか」
「アメリカ君はきみに再度離反を促しているってことなのかな、この刀の意味は。だとしたらきみを僕のものにする良いきっかけになるかもしれないね。諸手をあげて歓迎するよ。傷が治れば直ぐ様にでもアメリカ君の家にこれを持って飛び込んでくると良い」
「何を馬鹿な」
失笑を買って、おやと彼を見る。日本は悪意に満ち満ちた顔で笑っていた。なんてその類の笑顔が似合うんだと、感服する。
「アメリカさんがそのような詰めの甘いことをなさるはずがないでしょう。私を潰して、それで満足する人じゃあ、ありませんよ彼は」
彼は貪欲なんです。貴方と同じように。
日本はゆっくり瞬く。鋭利で怜悧な瞳が見え隠れする。
「じゃあこの刀はなんなの」
「貸して下さい」
一息に鞘から抜き身の刃が現れる。先が丸い。刃が潰されているのだ。日本は柄をロシアに向け、好戦的に言った。
「私を搾取できるものならしてみて下さいな。ただ、その後誰がどう出てこようと、それは貴方の責任ですよ」
「…………」
渡された刀は重かった。刃に指をなぞらせたが、血の一滴も出てこない。
穏やかに絶望したように彼は続ける。
「なまくらを私の傍に置くのは、己の無力をまざまざと私に叩きつけるためですよ。動けもせず、凶器にもならないような凶器が一振りあるだけで、飼い殺しにされる。アメリカさんは平気でそういうことをやる方です」
風が入って来た。春の香がふわりと入ってくる。もうすぐ春だ。自国はまだ遠い冬だ。
「勝てば官軍、と考えていた私と違って、アメリカさんは正義が勝つとはっきり仰る。彼が負けた時の言い訳が聞けないのはやや残念ではありますが」
本気で言っているんだろうか。日本の顔を見る。穏やかで、笑みすら浮かべている彼は、静かに絶望に浸っている。
「私は幸せです」
嘘吐き。
胸の奥がちりりとした。
***
それは純粋な殺意か何か(07.08.24.)