失路の先には儚くも




普段の主は人に当たらない人だった。どうしようもない癇癪を起こして、物に当たることはあっても、他人に(地位から見て下位にあたる者も漏れなく)当たり散らして鬱憤を晴らすような、人望の損なわれることなど決してしなかった。少なくとも、佐助の目の届く範囲では(それは、佐助の任務などの例外で空けざるを得なかった少しの時間を除いた全てを示唆する)。
戦局は混戦を極めた。辛勝といったところか、生きて帰ることができた者は等しく疲弊しきっていた。しかし、だからこそ勝ち戦で挙げられる酒は美酒この上なく、他の者らの喜びもひとしおではあるが。
佐助は忍ゆえ、その酒宴に参加することを憚った。もっとも、忍なんて汚い仕事回りをする者を末席に据えること自体がおかしいのだが、最早そんな常識を佐助は武田軍が有することなど期待してはいない。この軍は色々と規格外である。幸村の無茶に付き合ってさえいなければ、佐助もそこそこ良識を兼ね備えているのだ。
木の枝の翳りに腰を据え、夜闇に紛れながら眼下を見下ろす。そこには此度の合戦でぼろぼろになって尚、大した怪我ひとつなく、しかしいつになく疲弊しきった幸村が、両手に槍をこさえたまま、茫然自失している。
既に述懐した通り、苦戦を強いられ、辛くも辛勝した分との引き替えの犠牲は微々たるもので済まなかった。武田が誇っていた騎馬隊の内、いくつかの小隊はほぼ殲滅か壊滅の一途を辿った。足軽の死体など数えると身構えるだけで億劫になる。言い様はいくらでもあるが、どの道被害は甚大であろう。そして最も戦火の激しかった場所(というよりも、幸村が槍を展開するところは決まって戦模様が激しい)でもまた、おめおめと生き残った幸村は、手違いと手抜かりで多くの部下を犬死にさせている。信玄からは喝なる拳を頂戴することなく、代わりとばかりに些か失意の色濃い 「幸村よ、大局を見渡せ」 というため息混じりの言葉を聞いたときの幸村は、どこぞの独眼龍が着ているような陣羽織の鮮やかな青を通り越して、いっそ哀れな灰色の顔色をしていた。しかし彼が求めるのは辛辣な待遇に付随する同情心などではない。信玄ですらも呆れる失態が招いた事態を誰よりも重く受け止めているのは他ならぬ彼自身である。自刃することで拭える責任がどこにもないこともきちんと理解しているが、取り返しのつかない被害の帳尻合わせに潰れかけてもいた。
仕方ないけどさ、とため息を吐く。信玄の幸村への諫言か、幸村が享受しきれないほどの、かつてない圧迫か、言明はしないが。
仮にも元服も初陣も終え、17年しぶとく生きたひとかどの武将である。もののふである。安い慰めは過剰摂取の為されている団子よりも不要なのだ。


「……う、う」


泣いているらしかった。
不始末により消えた部下を悼んでだか知ったことではないが、幸村は佐助のいる木にうつ向いて泣いているらしかった。抑え込んだかのような嗚咽が幾度となく漏れ聞こえ、鼻をすする音が佐助の耳を震わせる。佐助はそれに大人しく聞き入っていたが、不意に愕然とした。
泣いているのだ、あの幸村が。


(珍しいこともあるもんだ)


戦で、屠り活動して気持ちが随分と粗野で高揚していたのかもしれない。冷静さそのものの佐助だが、幸村の泣き顔など彼が元服する数年前からお目にかかれていないことに漸く思い至った。長年共に過ごしている癖に、泣く回数が徐々に減っていたことに気付かないほど、それほど変化は緩やかだったのだ。
子供のようにしゃくりあげる幸村を眺め、佐助は何だか自分のせいで泣かれてしまったかのような後味の悪い思いをした。気丈に胸を張って一番駆けをする幸村の影が濃い故に、自分の眼下で泣くあれが、もしかしたら偽りではないかと疑いもした。けれどなだめすかすのは自分では到底役不足だ。
眼下で幸村は泣く。


「…旦那」
「……、佐助か。何用だ」
「当分戦の残党狩にかかるだろうから、そんなとこで突っ立ってないでもう寝たら、」
「黙れ」


枝に逆さまでぶら下がると、幸村は凶悪に睨んでくる。役不足も良いところだが、これで佐助に当たり散らしてくれでもすれば、多少は気分が晴れるだろうにと、幸村の性根の相変わらずな真っ直ぐさと無器用さにほとほと呆れた。
潤沢な涙で濡れそぼった幸村の目には月明かりで幾重にも滲んだ佐助が映っている。少し胸を詰まらせ、鼻がかった声でもう一度、幸村は黙れと呟いた。佐助はもう何も言っていないのに、煩わしげにうつ向いて、黙れと言った。誰に言ったのだろう。
幸村はまた小さな慟哭を繰り返す。いい加減目と喉と鼻がいかれてしまうのではないかと危惧した佐助だったが、それで翌朝惨めな思いをするのは幸村であって自分ではない。無理に留めて訳のわからない子供の駄々さながらな罵倒をぶつけられても困る。佐助は細々と、長々と、ため息を吐く。


「旦那も大きくなったね、」


答えはない。期待もしてない。
けれど団子ひとつのことで泣きじゃくっていた頃とは涙の重さが違う。彼は、命の重さを知ったのだ。


「ねぇ旦那」


幸村は顔を上げる。まだ落としてない血と汗と涙と鼻水で、見目も臭いも全く酷いことになっている。佐助は笑った。幸村は佐助を睨めつけたが、先程のような凶悪さは今ひとつ弱い。


「武士は人前で泣かないなんて礼儀、ちょっと昔はよく言ったものだけどさ、」
「何が言いたい」
「思えば旦那ってまだ17才なんだよね」
「だからなんだ」
「まだ、子供なんだよね」


幸村の目がきゅる、と吊り上がった。低く、 「口が過ぎるぞ」 と脅してくる。武士の、人を殺すときの、戦鬼の焔が揺らぐ目だ。幸村の手元にある槍が殺気でしなった。


「旦那」
「 」
「旦那」
「  」
「泣き顔よく見せて」


歳不相応分の遅れを取り戻すかのようなぐちゃぐちゃの顔は、もしかしたらお互い明日にでも死んで、もう見られないかもしれない。宛てがった冷たい手甲越しを暖かく熱を孕んだ幸村の頬がじわりと侵食する。
呆気にとられたように幸村は瞬きを繰り返す。涙が二、三粒地面に落ち窪んだ辺りで、漸く何を言われたのか理解したらしく、誰がお前なぞにと顔をしかめた。
また流れた涙を忌々しげに拭き取り、佐助の肩口に額を寄せる。ただ寄せるだけで、寄りかからないことに主らしいと苦笑いひとつ。


「なんだよつまんない」
「詰まるも糞もあるか。某の泣き顔は見世物ではないわ」
「もっと泣けば良いのに」


歳相応に。
幸村は佐助の肩を殴りつけ、鎧を掻き鳴らしながら行ってしまった。




おもかげわずか心身朽ちるとも/thanx;夜明けの口笛吹き