独占欲とか、そんなもんじゃなくて。
(慈しみ、愛しますから、)




*




佐助はふと顔を上げた。次いで服の裾を鼻に近付けて顔をしかめた。
ヤバイ。臭いが着いてる。
忍は、とにかく五感が鋭い。鋭くならざるを得なかった。野生から外れた人間は、それなりの呼吸の仕方も忘れ、気配と同時に臭いも体から染み出てしまう。忍を名乗るには呼吸から始まり、野生に限りなく近付く厳格な訓練をこなさなければならないのだ。
若くして忍の長と呼ばれるに相応しい実力を備えた佐助は、畏敬するに過分ないが。


「ここのところ、なんか気が抜けてんな」


今回の、信玄直々の命令も、常備簡易食の予備は作り忘れるわ、気が付けば警戒を怠っているわ、長がこんなでは周りに示しがつかないといった風にずさんな具合だった。今は甘んじて佐助の部下としているが、佐助と競って何の遜色もない才蔵に知られたら笑われてしまうと思い、佐助は嫌な気分になった。
場所は森林、もう少し奥に行けば、水場くらいあるのではないかと佐助は足を速めた。森で忍ぶなら土で臭いを落としても良いが、町へ繰り出すならば土臭さは目立ってしまう。やはり水で落とすのが一番だと、水気を含んだ腐養土の臭いが強くなる方へ踵を返す。
血のついた上衣が、重くってしょうがない。
小さいが、体を横にして沈められる深さはある畔を見つけ、佐助は迷彩の上衣を先ず水の中に放り込む。ふわふわ漂い沈む上衣を特に変わった感慨もなく見つめ、手甲を外してこんにちはした血まみれの手を、やっぱり特に変わった感慨もなく見つめ、血とかたびらの鉄臭さに混じった、それとは類を画している日溜まりの匂いに、これも落とさなきゃと僅かに肩を落とした。さよならあの人の匂い。自分を含め、水に何もかも沈めた後で、そんな感傷的な気分になっている自分に愕然とした。
別にあの人の匂いなんて、帰ったらまた着いちゃうもんじゃん。何を今更惜しがってるんだ?


「…えー、わけわかんねぇ」
「私の台詞だ、それは」
「あれ、かすがちゃん」


巨木の向こうで、佐助と同じく忍ぶ気があるのかないのか、よくわからない金髪がひょこりと顔を見せた。露出が多く、どこもかしこも体の丸みが一目で知れる忍装束を着ているのは相変わらずである。そんな格好でどうやって暗器を忍ばせるのかねぇとじろじろ見て、佐助はざばりと水を撒き散らし、体を起こした。
かすがの気配も気付けなかったのだから、やはり調子で出ないと認めるしかない。


「ところでかすがちん。何でこんなとこにいんの?」
「お前こそ、上杉領で何をしている」
「え、ここって上杉領なわけ?俺様甲斐だとばっかり」


かすがは呆れ果てた顔をして、素っ裸の佐助に構うことなく服を脱いだ。水辺でも鼻孔を這って昇る強い血の臭い。かすがの目的も同じというわけだ。


「傷でも作った?」
「腑抜けたお前と一緒にするな。…謙信様にたてつく不埒者を始末しただけだ」
「相変わらず、軍神にすげぇ執心振りで」


軽い調子で言うと、かすがは音が聞こえるのではないかと思うほど、佐助を睨めつけた。意に介さず、佐助は肩をすくめる。水音が静寂に響いた。


「…お前、真田から追われたのか?」
「へ?何でそう思うわけ?」
「いや、……そうだな。私には関係ない」
「もしかして、心配してくれた?光栄だねぇ」
「つけあがるな。さっさとこの地から出ていかないと、お前も侵入者と見なして始末するぞ」


佐助はにまりと笑った。かすががそう簡単に佐助を殺すなど、できやしないのだとその笑みは如実に語っている。事実力関係は佐助が上回っている。しかしまだ武田の配下である佐助がいつまでも越後にのさばって上杉の顰蹙を買えば、武田を攻める大義名分を与えてやることになるのも確か。佐助は大人しく水から上がった。


「あ、そういや、かすがぁ」
「馴れ馴れしく呼ぶな」
「好いた人間の一部を共有したいとかって思うの、これって慕情だと思うか?」


言ってから、これほど無防備な顔をしたかすがなど、見たこともないと感心した。普段からそれくらい可愛げがあれば良いのに、と言わなかったのは、単に佐助の興味が沸かなかっただけだ。


「…そ、れは、お前自身のことか?」
「? 参考までに」
「自分で気づけ」


かすがは佐助に背を向け、さっさと服を着込んで行ってしまった。成程、一枚布だと着替えが楽なのかと感心して、湿ったまま手甲の中に手を突っ込んだ。
べっとりして気持ち悪い。




*




「佐助、出てたのか」


気配を忍殺しつつも屋敷の中庭を横切ると、幸村が襖を開けて顔を出した。
忍なのにこうも簡単に存在を知られるのは、ささやかな佐助の矜持としては傷つくものがある。しかも、今の口ぶりからは、どうやら佐助が任務に赴いていたことすら知らなかったらしい。それは取りも直さず、佐助の不在の間に、戦がなかったことを証明するのだが、それにしたって扱いが非道過ぎやしないか。


「帰ってきたなら済まぬが、団子を買ってきてもらえないだろうか。今日は確か茶屋の方で」
「俺様、任務明けでまだ睡眠も摂ってないんだけど…」
「? だから、買ってからで良いだろう?」


忍使いの荒いこって、といつものように流せなかった。俺の価値をもっと引き上げてよと文句はあるが、今まで自覚していなかった疲れと倦怠感が突如襲ってきて、閉口を余義なく強いられた。


「旦那、団子好きだね…」
「うむ!」


武士だから甘いものは好かない、とつまらない見栄を幸村は張らない。好きなものは好きなんだ、なんか文句か異論はあるかと開き直るのが常日頃である。多少欠いた礼儀に関しては恥じるが、甘味に懸ける依存は、味をしめた幼き頃より決して変わらない。
臆面も気負いもない欲の、真っ直ぐなこと。この人は人を殺める癖に、純粋なのだと改めて、打撃として思い知らされる。ただ単に、道にころりと落ちている石ころを蹴り退けるような容易さで、それより重きを置いてひたすらに信玄の邪魔になるものを、命を賭けて打棄するに徹している。人の下に治まることを潔しとせぬどこぞの片目の男とは違い、自分の認めた人間の元でならば如何なくその槍術を披露してくれる。味方にすればさぞ頼もしい良将にもなるだろう、濁りない忠誠心は、忍は勿論そこらの生半可な人間に介在はしない。


「栗饅も頼む!」


周りに対して無体なのは、この人がいつまでも子供だからだ。数日離れていても、幸村からは変わらず日溜まりの匂いがした。
佐助は苦笑いを溢して、たった今しがたくぐってきた屋敷の敷居を引き返した。ちょっと意地悪して、みたらしの本数を減らしてやろう。
程なくして帰ってきた佐助は、小脇に包みを抱えて、顔を輝かせて佐助の帰りを忠犬の如く待っていた幸村の前に再び姿を現した。まだ仄かに暖かい包みを渡すと頭する間もなく紐をほどく。みたらしの本数に些か眉を下げたが、あまり気にしない様子で幸村は大口を開けて串にかぶりついた。


「ん、ふむぁい」
「はいはい、口にもの入れて喋んないの」
「こっちが栗饅だな?」
「聞いてねぇだろ」


足の裏の痺れるような痛みや、乾きっぽい眼球や重たい瞼は佐助の疲労をじわじわ痛感させるにも関わらず、団子を詰め込み過ぎて、いつか喉に詰まらすだろう幸村のために茶を酌む自分の足軽根性にほとほと呆れる。
滓をつけて団子を目一杯頬張る、こんな子供と変わらない人間の、どこを気に入って仕えているのか自分は。


「ほらほら、落とさないの」
「自分で拭けるわ!」
「あ、そ」


幸村は舌の根も乾かない内に、またも口の周りにべたべたついている滓に頓着せず、あっという間に箱の団子を胃に納めていく。先刻佐助が言った諫言に耳を傾けていたのかどうかさえも怪しい。
佐助は深いため息を吐いた。


「そういえば、何故まだ佐助はおる?」
「アンタが団子買ってこいとか言ったからだろ」
「眠いとか言っておったではないか」
「………………………」
「寝れば良い。俺に付き合う必要はないぞ」


誰のせいで睡眠の機会を外したと思っているのだ。そう、もっともらしい怒りをぶつけて、ただでさえ擦り減っている気力を空費するのはあまりにも阿呆臭い。
佐助は呆けて幸村がまた菓子に手を出す様を見た。最後の栗饅である。眩しい黄色がひょこりと覗いている。そういえば、簡易常備食を持たなかった故に、任務の間は碌々に食べていなかった。嗚呼腹が減った。


「…佐助、」


気が付けば、幸村の指ごと栗饅を食べていた。幸村は己の指を呑み込んだ佐助の口を茫然と見て、固まっている。
餡や皮は溶けてしまった。栗のごつごつした感触だけが、口の四方八方を飛び回る。それは幸村の指をしゃぶる舌に乗っているからだが、幸村はそれで自失しているわけではないようだ。
爪の間に入った滓を舐める。爪と、槍術の鍛練により、硬く、分厚くなった、ある種豊満な指を剥離するように強く。


「あ、ごめん。最後の一個食べちゃった」


激昂もせずに幸村は、佐助の口から無事救出された指でまだ口の周りについている滓を舐め取っている。癇癪のない静けさ、それが恐ろしい。


「ごめ…、代わり、買ってくるよ」
「良い。一個だけだし、気にすることはない。そう気を揉むな」
「だけどさ、いや、やりすぎたっていうか…」
「確かにな。指が食われるかと思ったぞ」


幸村は笑う。込み上げた愛しさに堪らなくなって、佐助は破顔して幸村に飛び付き、抱き締めた。


「ご苦労だったな、佐助」


きゃっきゃっと笑いながら、幸村は佐助の頭を掻き回した。
どうして指まで食ってしまわなかったのかと、佐助は早々に後悔した。




その指食べて良いですか