この人のためならば、何が幸せかなんて考える余白などいらない。
ほらまたひとつ。
*
佐助たち忍が、何のためにいるのか、謝った解釈を受けた人間をよく見かける。それは奥州の方にあったり風来坊となった戦人であったり、まあ様々である。
「ちょいと失礼」
「あ」
佐助の口に、綺麗な茶菓子が放り込まれる。幸村は一等自分が最初に食べたかったのか、些か失望の色をした目でその行方を最後まで見届けた。緩く口の開いた、その滑稽なこと。佐助は練砂糖の甘さとそれにふと笑みを零した。
「何て顔してるの」
「う、うう」
「言ったでしょ?贈られたものは一通り全部、俺様が許可出すまで開けちゃ駄目だって」
「しかし、慶次殿が京にある有名所の和菓子だといって」
「それが仮にお館様宛てで、毒が入ってたとしたら旦那は不届きで打ち首か詰め腹だよ?本当に毒が入ってるわけじゃなさそうだから良いけど、用心に越したことはないの」
「お、お館様と俺とでは格が違う!」
「相手方にしてみれば、敵としちゃ同じでしょ。もうちょっと自分の立場も意識してみたら?」
言い含められ、馬耳東風の幸村も流石に肩をそびやかした。けれど耳に章魚ができるほど繰り返した言葉は、その真意が果たしてちゃんと幸村に届いているかは甚だ疑問である。
こんな面倒な管理も忍の、真田に雇われた佐助らの仕事の本領ではない。これはほんのおまけだ。それをわかっているだけに、幸村は、日常生活で繰り返される佐助の言葉にあまり重きを置いていない。蛙の面に水をかけるような肩透かしぶりに、さしもの佐助も近頃辟易している。
佐助からしても、いい歳して多感な思春期の子供のような幸村の介添えなど真っ平だ。そもそも顔合わせしたその夜、確か幸村から見受けた印象はこんな餓鬼臭くはなかったはずだ。
そう、雨のそぼ降る夜中、外でぱちぱちと雨垂れの弾ける音を聞きながら、蝋燭だけが煌々と灯る薄暗い部屋で初めて幸村を見たのだ。元服の、ニ、三年前だったと思う。思うというのは佐助の記憶がそこらへん大変曖昧なせいで、けれどそう記憶してあるのなら先ず間違いはない。
確か、猿飛佐助だったか。里の方で頭を争う働き振りだそうだな。期待している。
影が蝋燭で伸びるごとに変わる幸村の陰影がやたらと器を広大に見せたのだ。そうだと佐助は今の現状を見て思いたかった。
目を向けた先の幸村は、佐助から了承を得た菓子を大手を振って食べている。甘い物好きな彼にとって某風来坊からの京土産(彼もその辺を熟知しているのだろう、甘い物以外を持ってきた覚えがない)は、なかなかおいそれと観光に行けないようなこの世で重宝されるものである。ただの浪人として身軽な風来坊を、幸村が僅かな憧憬の目で見たことがあるのを佐助は密かに知っている。もしかしたら本人にその自覚すらないのかもしれない。
佐助はこんなはずではなかったのにとふと溜め息を吐いた。幸村がそれを見咎める。
「佐助、溜め息は人の幸せを逃がすというぞ」
「何それ。なんの子供騙し?」
「…っ、お館様がそう仰られたのだ!」
「わー!ごめん、ごめんってば!」
威嚇する獣のように牙を剥く幸村を、佐助は和菓子を食わせることによって宥める。憮然とした顔のまま、幸村は箱を腕の中に囲って口にいくつも菓子を頬張った。嗚呼、繊細な細工が特点の京菓子も、こうなってしまえば形無しだ。作った職人でさえ、こうも吟味されずにその菓子が胃に納まるなどとは思うまい。顔も知らぬ職人を、佐助はこそりと憐れんだ。
むすりとした顔で、庭先に仇敵でもいるかのように一途に前を睨む幸村に、またも佐助は溜め息を吐いた。途端、幸村が横目でちらりとこちらを向く。気遣うでもなく、寧ろ関心も払わず、五月蝿いぞお前とその目は語る。こんなぞんざいな取扱では溜め息を吐くなという方が無理だ。溜め息如きで逃げるような幸せなど、いっそ逃げてくれた方が良い。
まだ口に残る優し過ぎる甘さを舌の上で持て余しながら佐助はどうしたものかと肩を落とす。けれど、あの日の鋭い気迫の幸村と、こののんべんだらりな有り体の幸村が非同一人物であるとも言えなくて。
「単純な二面性よりも始末が悪いよ」
「何の話だ?」
「何でもない」
そうかと、逆に冷たさすらも垣間見せて幸村はまたひとつ、菓子を口に入れる。さようなら職人の傲慢で一方的な思い遣り。
そうなのだ。戦議で見せる智将ぶりや、戦場で見せる猛将ぶりや、一転、幼子のような稚拙さはその実全て画一化されていることを佐助は知っている。だからこうして日溜りで無為に過ごしていたのが、その雰囲気を突如捨て去ることもある。どこまでも人を振り回すのが性らしい、傍迷惑な御仁であることは満場一致のはずだ。それだけは、変わらない。
「乱世はいつ終わるのだろうなあ」
「さぁね。俺達忍は、乱世が終わったら廃れてくだけさ」
「乱世が終わったら、きっと平和になるな」
「お館様が、作る世でしょ?」
「その前に、独眼竜殿と決着をつけたい」
「…………、」
「平和で腑抜けて腐った竜など、興醒めも良いところだ」
「……は、」
「わかっておろうな、佐助」
「はいはい」
懐紙に落とされた一滴の墨のようにじわりと不審点が広がる。
見ればあんなに菓子で潤んでいた顔が、今や戦のことで頭を占められれば、どんな奇天烈な菓子であれ、手にしていることすらも忘れたのではないかと思う鋭い殺意。
佐助は幸村の背中を守るためにいるのではない。
幸村は、あの、耳の後ろがざわざわなる戦場の空気の中で、自分と同等かそれ以上の武士と戦いたいだけなのだ。幸村が佐助に望んでいるのは、庇護だとかそんなじゃない。
「邪魔立てすれば、お前の首も撥ねるぞ」
「わぁーかってるってば。存分に楽しんで頂戴よ、殺し合い」
忍は、幸村の背中を守るためにいるのではない。真田に雇われた忍は、雇い主である幸村の命令に耳を傾け、忠実に動く手足になるのだ。
佐助は溜め息を吐きつつも、嬉しかった。だって佐助はどれだけ時を隔てようが、主を変えない限り、幸村の走る先を阻む敵になり得ようもない。幸村がどれだけの武士と認めた屍を踏み越えようと、幸村の通った後が佐助の足場となる。幸村の見る景色を、佐助は、幸村が相対したどれほどの名のある武士よりも間近で見られるのだ。どこぞの独眼竜のような共有はできずとも。
そして使い物にならなくなったその時は、
「宜しくね、旦那」
「無論」
( 嗚呼このいのちにもかえがたいおれさまのだいすきな主さま! )
佐助は恍惚と蕩ける陽射しの中で溜め息を吐いた。
幸せ逃げた