鴉は諭い、
一芸血の雨でも降らせたら良かろうか。考えて、即座に捨てた。血の雨なんて、もう、必要ないだろう。幸村ははふ。とため息を吐いて、今自分が座っている一枚岩の上から戦況を見下ろした。自軍もさることながら、地面は血で真っ赤だ。背負う旗に付いた鮮やかな血の赤が乾いて茶色になる頃には、また、別の新しい旗に赤が付く。どちらも退くことはなく、また新しい旗が血で汚れながら横倒しになるのだ。毘の字だったり、四菱だったりと、その色は様々だけれど。はふ。ため息を吐く。
「旦那」
「佐助か。どうした?」
「どうした、はこっちの台詞よ。いつもなら先駆け、殿を勤めるのが常だろ?」
「うむ。俺が先に行こうが行くまいが、ああして高々と旗を掲げる一般兵は死ぬんだなと思っただけだ」
「…アンタ」
「失言だったな。今のは忘れてくれ」
岩から降りる。長い槍が交差する場を、自分の槍で叩き割る。旗が邪魔で動き辛そうな敵兵を、これ見よがしに貫く。普段鍬を振るって己らの生活の基盤を支えてくれる、ただの農民だ。返り血を顔に被りながら、槍に付いた血を払い顔を拭う。また次の農民へ。
腹の底から響くような雄叫びの連鎖は、けれどいつものように幸村を奮い起たせない。どうしたことだろう。
「佐助、来てるか」
「アンタの背中を守るのが俺の仕事なんですがね」
「知っておろう、奥州の伊達政宗が俺に文を寄越した」
ただ一度、間見えただけの戦があった。見られるというよりもその眼光の強さのせいで、睨まれたような気がした。それで物怖じする幸村ではなかったが、太股の前が何度か痙攣したのを覚えている。武者震いであった。向かい合う、対峙する対岸で伊達は微かに幸村を見て何かを口ずさんだ。それに幸村が答えあぐんでいる最中に、伊達は退陣していった。相手はその後で甲斐と和議を結んだそうだが、それに出ず仕舞いの幸村は話に聞いただけである。身動きの取れない冬でもあるまい奥州が、何故突然甲斐との和睦を望んだのだろうと首を捻るに留めたけれど。そんな矢先に投じられた、幸村個人に宛てられた手紙。
「話したこともなければ、遠目にしか見たことのない伊達殿が、何故俺に文を認めたかなど、わかるはずもない。俺はお前の言うところの戦馬鹿だから」
「揶喩しないでよ」
「すまぬ」
手紙の内容は実に奇天烈であった。
恐らく書いた時分であろう天気、民草の様子、豊作がどうの、新しい南蛮渡来の農工作など彼是を書き綴り、そちらはどうだろうと何の前置きもなく飛び込む。情報の漏洩をそれとなく促しているのか、はたまた和睦の印に純粋な情報交換を求めているのか。流石に兵や兵糧のことは書かれていなかったが、そんなものは武田の頭である信玄直々に渡せば良いものを。そして〆の一文。
鬼は竜に食われるか否か。
ただ鮮烈に、えぐるように幸村の胸を乱暴に掻き回した。
「…俺は考えるのが苦手だ」
「そんなの普段のアンタ見てりゃわかるっての」
「兵法なら兎も角、腹の探り合いは勝手がわからぬ」
「得手不得手があるでしょ」
「伊達殿が俺に何を求めているのか、わからぬ」
「…」
「わからぬのは嫌だ。気持ち悪い」
独眼竜の異名を持つ伊達と、紅蓮の鬼の異名を持つ幸村を、あの一文が喩えているとするのなら幸村は迷わず後者を択ぶ。後者でなければ幸村が信玄に従う意味がまるでない。
「初めて伊達殿に会ったとき、言われた」
「…なんて?」
「『覚悟はあるか』」
あろうことか、戦場に立っている幸村に向けられた言葉は、戦う意思を確かめる言葉であった。激昂するのも忘れて、幸村は、伊達が退陣してゆくのをぼんやりと見送った。
「おかしなものだな、佐助」
「何で?」
「大将首ただひとつのために、俺は鬼になって民草を刈り取っている」
「…」
「何の罪もない、民だ。俺達の飯を作ってる、俺達を支えてくれる民を、俺は斬っている」
耳鳴りがするほどの雄叫びと、地鳴りがするほどの戦列の狭間で幸村は足を止めて佐助を見た。佐助はぼろぼろの服で返り血も被っているが、大した傷はひとつもない。それに安堵して、幸村は槍の先を地面に落とした。佐助が瞠目する。戦場で構えを解くことは、その命にも関わるのだ。嫌というほどそれを理解している幸村は、今にも叱咤を飛ばさんとする佐助の口を遮った。
「良い」
「良くない!」
「良いのだ、佐助。死ぬつもりなんてない」
「ならせめて警戒を解かないでよ。アンタはただでさえ目立つんだから」
「佐助」
幸村の槍が向かってくる兵を捉えた。有無も言わさずその命を奪い取る。
戦局は武田が圧していた。武田の兵が徐々に上杉方の本陣に詰めていく。死屍累々に集まる鴉共が増える。茶けた血を覆うように降る黒が、直ぐ近くまで来る。
つまり、戦の盛り場は疾うに移動しているのだ。
「武器を持つ者は殺される覚悟のある者。戦でそれは暗黙の了解だ。旦那はそれを忘れちゃならない」
アンタは戦人だろう?と佐助が嘆願の視線を送る。幸村は、当然だと強く頷く。
胸の詰まるような腐臭が足元から沸き立つ。幸村は槍を突き立てた。今にも死にそうな身でまだ幸村の足を掴もうとする、兵の手が槍の切っ先に潰れる。略奪という言葉が浮かんで消えた。
「独眼竜は、きっと旦那を認めた上で、旦那の覚悟を知りたかったんだよ」
「憶測に過ぎぬ」
「そう納得しときなさい」
幸村は不承不承頷いた。佐助は安心したように笑い、幸村の肩を強く叩いた。
「伊達殿への返事は如何がすれば良いだろうか」
「同じこと書けば?天気でも、何でも、旦那の目に止まったことなら小さくても良いじゃん。流石に戦のことは禁句だけど」
「和睦は飽くまで紙の上だから、か?この世も不誠実になったものだ」
「乱世ですから」
幸村は顔を上げる。兵は大分移動してしまったようで、屍だけが多く横たわる地に鴉だけが降り敷くように空を舞う。
「今日は、先駆けも殿も失敗だな」
佐助は、 「殿は間に合うんじゃない?」 と笑った。
幸村は正直怖かった。かつての合戦場で、自分を見ていたあの目が酷く飢餓し、何かを渇望しているのではなかろうか、と。まだ少し、怖い。それを揉み消すように鼻をすすり、幸村はまだ雄叫びの聞こえる山の方へと顔を向けた。
「往くぞ」
「はいはい」
死体を啄んでいた鴉が顔を上げ、一声、鳴いた。鶴には程遠い、濁った声だった。