夜の座敷は、弁丸にとって未知であった。父が兄や母を従え、能やら狂やら雅楽やらを嗜んでいることは知っていたが、元服前の弁丸にその座敷の敷居を跨ぐことは、まだ、許されていなかった。
遠くの間で、寂しげな掠れた笛の音だけを耳にしながら、弁丸はいつも蝋の灯を見ていた。
糸月の夜半。兄に呼ばれて夜宴に招かれた弁丸は、初めて目の当たりにする父の戯れを、何だこんなものかと感慨もなく見ていた。相も変わらず掠れて寂しげに聞える笛の音と、扇を持って緩やかに、足音も控えめに動く顔を隠した人間と、申し訳程度に時折侘しく相槌を打つ、葛と。世界はただそれだけで構築されているのだと、如実に乱暴に伝えるだけである。だから合間に父から 「どうだ?」 と得意げに問われても、その探るような視線から逃げるように目を伏せ、 「良きものにござりました」 と無力な弁丸は当たり障りなく応じるより他ない。それすらも見透かしたように、鼻で笑った父に感じた、憤りと羞恥を呑み込んで。
「今日お前を呼んだのは、こんなものを見せるためではないわ」
用がなければ今日の宴にも呼ばれなかったのだと悟った弁丸が、口の中を噛み切るのと、父が上がれと言ったのは、同刻であった。
するすると姿を出した黒装束の集団に弁丸は瞠目した。黒、黒、黒。数名のそれらが世に言う忍だと理解するのに、さして時は要らなかった。その中で一人、明るい髪が灯火に浮き出ている。
「猿飛佐助。面を上げよ」
「は」
短く応えてそれが顔を上げた。途端、弁丸の長い髪に埋もれた項がぞっと毛を逆立てる。これは警鐘である。弁丸は佐助から目を放さない。それは佐助も同じであった。名を呼んだのは弁丸の父であるにも関わらず、下座の席から真っ直ぐ弁丸を射貫いていた。
弁丸は、父の意図を知るべく、父を仰いだ。父は、良い印象を必ずしも受けないであろう類の笑みを浮かべ、宣う。
「あやつはお前の近仕にしてやろうと思おた奴よ。今日から、お前の好きにするが良い」
人を物とも扱わぬ横柄な父の、論う言葉に、弁丸は僅かに生唾を嚥下した。つまり、護衛として佐助を使えと暗に言っているのだ。それは弁丸が、命を狙われる立場に回ったことを示唆している。年を重ねると誰も彼もが敏くなっていけない、と顔をしかめながら弁丸は間を出て行く父に頭を下げた。
「巧く立ち回れ」
「…、は」
こんな夜宴など、初めから断れば良かったと、弁丸は早々に後悔した。呼びに遣わされた兄ならば、渋い顔をしつつも了承してくれたのではないか、と。
頭を上げた弁丸を、佐助はまだ見ていた。目が合うと彼は僅かに口角をあげて、 「宜しく、若」 と言った。それを笑顔と称するには、些かおこがましいような気がする。弁丸は、その笑顔(称するのなら、の話だが)を先刻見た能の面に似ていると思った。確か、小面という名の面だったか。
弁丸は隠れて、佐助のことを、小面と呼ぶことにした。
部屋まで下がると、弁丸は読む気のしない書物を手当たり次第蹴散らかした。積んであった本までも、ばさばさと音を立てて崩れてしまう。
「もー、何やってんですか」
むしゃくしゃすると、お武家の方は皆物に当たるんですかね、と、心当たりでもあるのかそれを後ろにいた佐助が丁寧に拾う。
弁丸は顔をしかめた。気配が、なかったのだ。
「…佐助、と申したか」
「はい」
「某は、真田家次子の弁丸と申す。元服前故名乗れる名が」
「心得ております」
忍は寡黙なものだと思ったのは、弁丸の思い込みだろうか。佐助は弁丸の意に反して、よく喋る男であった。見たところ、弁丸より上のものの、そこそこ近い歳ではないかと弁丸は睨んだ。配慮か策略か、佐助を弁丸に就けた父の采配は弁丸にとってあまり関係がなかった。そこに何の思惑があるかなど、弁丸の知るところではない。足を取られず、付け入る隙さえ誰にも見せなければ、少なくともある程度の保身となる。体力がまだない弁丸にとって、その点では佐助は頼れる後ろ盾にもなり得るだろうが。
弁丸は小面を思い出した。
「…諜報も暗殺も、暫くはないだろう。用があれば呼ぶから、それ以外は好きにしてくれ」
頷き佐助は、静かに姿を消した。蝋の火が揺れることもない。
幼少より佐助は、忍として生きていたのだろう。あんな若くして一人の人間の背中を守ることを任されるのだ。守る対象が、例え弁丸のような小童だとしても。
弁丸は火を落とし、戸を開けて月明かりを導いた。蝋の油臭い匂いがつんと残る。
父や、元服も初陣も終えた兄の傍で、いつも感じる肌寒い空気。それと同じく、そしてそれよりも濃いものが佐助の周りを漂っていた。圧し掛かるような重いそれは、人間の死に触るその都度醜悪さを増すもののような気がする。死に際の気配なのだろう、弁丸はあまり好きではなかった。一人前の武士として戦をする頃には流石に慣れているだろうけれど。
そのときもまだ、佐助は傍に、後ろにいるだろうか。佐助の笑顔が小面と重なり、背筋がぞっと焦れた。
糸月が弁丸を嗤っている。
弁丸は、木登りが得意だった。縄と木の棒一本さえあれば、如何なる木も登ってみせた。
そして今日も大木の大きな枝に座って日の入りを見ている。森の木々が、紅葉でもないのに真っ赤に真っ赤に染まる様は、見ていて血が滾る。弁丸の内に潜在する、殺す側の人間の性であろう、と弁丸は脈動する胸を押さえて偽の紅葉をじっと見つめていた。
弁丸の座っている枝の真上にある枝が、僅かにしなった。弁丸は座っていた枝にぶら下がると、即座に別の枝を掴み、身を移す。誰が来たのかはすぐ知れた。
「若ってば身のこなしだけなら忍に向いてるんじゃない?」
「忍にはならん」
佐助のぶら下がる枝の反対へ移り、身を隠しながら木から滑り降りる。手や腕や膝を擦り剥くが、痛いだけで血は出ない。皮は疾うに分厚くなった。
弁丸は知っている。佐助が弁丸と同じ年の頃には、弁丸以上に身軽で、人を手にかけていたことを。そして、おちゃらけたその口調は時に挑発を、時に油断を誘っているのだ。
弁丸が木から降り、一息二息吐いた頃、葉のニ、三枚と共に佐助が弁丸の隣(若しくは後ろ)に着地する。ほら。弁丸は釈然としないまま佐助を見た。
「何用だ」
「夕餉ですってよ」
今日は何だろうねと、共に食べもしないくせに弁丸に笑いかける。小面が歯を見せて、笑う。弁丸は知らず恐怖した。
「…若?」
「何でもない」
佐助が弁丸の違和(或いは正体のわからないものに対する獣の本能のような殺気)に気付かないはずもないにも関わらず武器を取らないのは、恐らく、弁丸が主だからではなく、弁丸が佐助の手に負える子供だから。侮りおってと、弁丸は唇を尖らせた。
「…若は、俺以外の忍が好きじゃないんだね」
嫌いなのは寧ろお前だと、弁丸は言いたかった。けれど実際言ったからといって何がどう変わるわけではない。弁丸は佐助の主であり、佐助は弁丸の傍にいる。わかっていて挑発に騒ぐほど、弁丸は自分を子供ではないと自負している。
「俺、実はあまり若が好きじゃない」
結構なことだと弁丸は佐助を見返した。佐助の顔は、無表情である。
弁丸は、いつかの父に同席した能を思い出した。
鳴る葛、寂びの笛、そして、能面の人間が忍び足で踊る世界。弁丸の心を一瞬にして無情へと叩き落す、無碍な世界。板張りのあの間と、夕陽に赤く染まるこことでは全く場が違うのはわかっているけれども。それでも。
弁丸は笑った。
「お前とは、台上で逢いたかったな」
「はい?」
「向いてそうだ」
翁、小尉、悪尉、大べし見、大飛出、黒髭、怪士、邯鄲男、痩男、平太、中将、喝食、童子、増、孫次郎、曲見、姥、般若、顰。どの面でも良い、けれどやはり小面で。目の笑っていない笑顔を張り付けたあの面が、何より佐助の本質を顕しているように思えた。
弁丸はさっさと佐助を置いて行く。後ろから佐助の戸惑った声が走る。
「嘘だよ。アンタのこと、嫌いじゃないよ」
聞えない振りをして、頭する間もなく屋敷に入る。屋敷も赤らかだった。門には誇らしげに六文銭がある。ついと撫でると、佐助を振り返る。
「佐助は我が家紋をどう見る?」
「銭六つ」
「まんまではないか」
「じゃあ若は何と?」
「三途の川の渡銭だ」
自分の背にかかる家の紋を六道銭と言って退けた弁丸に、佐助は僅少なりとも瞠目した。弁丸は口を開けて笑う。
「真田の戦忍になったのであれば、お前も持てば良い」
「…忍が身分証明になるようなもの持っちゃ、駄目でしょ」
それに、真田の家紋は重いし、と呟かれた言葉に、たかが銭六つだぞと弁丸は言う。揚げ足を取った弁丸に佐助は、アンタって顔に似合わず辛口だね、と情けない顔で笑った。
「おや、小面が笑った」
「何ソレ」
「能の話だ」
家紋の六連銭を持つようにと奨めた弁丸を、如何に佐助が取ったかなど、知る由もない。小面も笑うものだと、ただ感慨深く思う。
「ここは慣れたか?」
「やることはどこだって同じだよ」
打ち捨てるような言い方は、けれど弁丸に反論とそれ以上の追求を許さない。忍と、突き詰めれば他者と境界を交えないための伏線だと、弁丸は父といることで学んだからだ。そうかと短く返す。
「忍は宿を選ばぬからな」
「わかってんじゃないですか」
帰りましょ、と弁丸の手を取る佐助の掌は、やたら骨張っていて冷たかった。同時に、肌寒い空気がふと覆う。弁丸はそれを振り払い、気恥ずかしさを感じながら大人しく手を引かれた。夕食後に鍛錬を頼んでも平気だろうかと佐助を盗み見る。佐助は小面に戻っている。
いまいち好きになれないと、弁丸は首を傾げた。それでも、父の夜神楽の暇の相手ができるのは、嬉しいことだ。例え時たま笑うだけの、小面だとしても。
弁丸の感慨を奪う世界の住人だとしても。
( 板張りの間にいるのは彼と自分だけ。彼は忍び足で踊り、自分は無感情にそれを見る。 )
その舞台と残夢