とある桜の散った季節のことである。
雨に叩き落とされた桜の花びらが排水溝に詰まり、最早情緒も何もかもをかなぐり捨て、ただのゴミになり下がったそれらを見て、嫌な気分になったことだけは鮮明に覚えている。まるで自分のようだと詩的にもなれず、淡々とした落ち着いた気持ちが雨上がりの街中の湿った空気に助長される。加速する閑静。


「…眠い」


その日は冬眠前の熊宜しく、酷く、眠かった。




たなごころ




自分は頭が良い方ではない。そのことを十二分に真田は理解していた。本日行われたオリエンテーションテストで、出来があまり芳しくなかった。前にきちんと答えられた筈の問題が、今日になって解き方を忘れて問題を解く手が進まなくなったのだ。昨日だらだらと夜を更かしたのが後々になって響き出した。
じわじわと船を漕ぎ出した頭を軽く振り、うっすらと曇っている空を恨めしげに見上げる。


「お館様は俺に失望なさるだろうか…」


気掛かりはその一点のみ。
尊敬する恩師が勉学のみで人間を判断するような人間でないことはよく知っているけれど、世話になっている手前のうのうと過ごすような怠慢は真田自身が許せない。なんとか成果を挙げようとしはしても、簡単に結果が見えないところが厳しいこのご時世である。
高校は義務教育の過程に非ず、勿論毎回払うべき授業料は安かない。バイトで少しは後見人にかかる負担を軽くしようと思えども、ただでさえ勉の立たない癖にバイトで時間を割かれては伸びるものも伸びない(元から伸びる才など持ち合わせていないかもしれないが)。
ため息を吐く。恐らく古くから知る幼馴染みもこの有り体に呆れるに違いない。折角同じクラスになったのに何してるのと苦笑いを溢すやもしれない。気心が知れた仲だと見栄も意地も見透かされそうだ。時折やってきて家事をしてくれる彼を思い浮かべて、真田はまだ肌寒い風に脇をしめる。そういえば今日は雨後曇りだと教えてくれたのも彼だったか。


「…?」


建物の隙間風に乗って、車や人の喧騒とは違う何かが真田の聴覚を衝いた。砂塵が微かに舞う、僅かな雑音の混じる方へ足を進める。重たい空気に這う砂塵は足を進める度に多くなる。


「…………」


見れば路地の間で、白いカッターシャツの誰かが喧嘩を繰り広げているではないか。目を凝らせばそれが真田も通う学校の制服だと知れる。遠目に見ても各々左右の目に眼帯をしている二人は、多勢に無勢という言葉を知らないとでも言うように周りを蹴散らしている。兄弟なのか、それとも長い付き合いなのか、拍子も逸れることなく軒並相手をのしているようだ。その手腕に元々血の気が多い真田としては疼かないでもないが、後見人に厳しく謂わしめられているので(備考として付け加えると、真田の後見人である男は武道も教授する身で真田も彼の指導の内にある)指をくわえて見ているだけである。
帰ったら鍛練を申し出ないと気が済まない。真田は苦笑いをして踵を返した。


「旦那」
「佐助?」


振り向けば買い物袋をぶら下げた佐助が歩いてくるのが見えた。天気予報を真田に忠告した癖に、自分は傘を持ってこなかったらしい。ずぶ濡れだった。


「帰りか?」
「うん。たった今買い出しに行ってきたところ」


そして佐助は真田の視線の先にあるものを見た。


「げ。馬鹿親と伊達のダンナ」
「知り合いか?」
「ん、去年のクラスメイトと元先輩」
「? 止めなくて良いのか?」
「だって俺様関係ないもん」


元先輩という言葉に疑問を持ちつつ真田はそうかと曖昧に頷いた。佐助が良いと言うのなら良いのだろう。クラスの誰其を教えてくれなかった佐助に一抹の不満と寂しさを感じたのは禁じ得なかったが、自分は佐助の身内でもなければ親戚でもない。真田に教える義理立ては無用の産物なのだ。彼らと面識のない真田があまり掘り返して言ってもそれは栓なきことである。
湿って垂れ下がった佐助の髪から落ちた水滴が、真田の頬をかすめた。寄り添う傍らで、真田は佐助の体が随分冷たく感じた。


「…今日は家にくるのか?」
「そのつもりだけど…何か都合悪い?」
「いや…早く風呂を湧かして体を温めないと、佐助も風邪引くと思っただけだ」


佐助はぽかんと真田を見て、気にしないで良いのにと笑う。そうはいくかと口を尖らせると、強引に、「それより学年最初のテストはどうだった?」と話題を逸らされ、真田は閉口するより他はなかった。
差し出された手を(やはりいつまでも経っても子供扱い!屈辱的だ!)意趣返しに強く握り、黙って歩く。見ない内に少し伸びた身長は、痛いよ旦那と言う。一週間に五、六回は会っているといっても、クラスが違えば顔を見せる時間も減るだろう。真田は離れていた日を思い、改めて佐助と一緒のクラスになれたことが嬉しいのだと実感した。


「旦那?」
「…佐助。別に佐助と違うクラスでも、俺は寂しくなかったぞ」
「? なぁに言ってんの。あんなの運でしょ」
「じゃあ、佐助の運が良いんだな」
「そうかもね」


繋がれた手をほどき、ビニル袋の半分を持つ。不思議そうに真田を見る佐助に、「なら佐助に会った俺の運はもっと良いな」と笑うと、また同じに、けれど小さく照れたように、そうかもねと返された。前より素気ないそれと真田の手の内にある半分だけの重みに、真田は確かに喜悦と安堵を感じたのだった。