一度伸ばした手は、掴むためにあるものだ。


「アンタさ、血の匂いがする」


心外な、という顔はされなかった。彼は戦人で、返り血を浴びるのは常である。ただ、彼は、そんなに臭うかと眉間に皺を寄せて自分の腕に鼻を寄せた。


「血でできてんのかってくらい、匂いがする」


けれど、嫌になるはずの、特有の血生臭さは気にならない。寧ろ、戦場の中で、生温い風が吹いて、血潮に沈んでいた赤い赤い赤い彼を一度見てしまうと、いっそ血に溶けてしまうのではないだろうかと妙に愛しさを感じた。
血に溶けてしまいそう。いとしい。早く捕まえないと。捕まえ損ないなんて、俺の沽券に関わる!


「なあ」


そのときの彼の顔を、誰も知らない。誰も知らなくて良い。そして、俺だけが知っていれば。




猪突さいあい猛進だっきゅう




敵に背を向けるは武士の名折れ也。日がな敗走する敵兵に向けて罵る言葉は、今は自分に該当するというのが何より腹立たしい。不甲斐無さを感じつつも走るしかない現状を甘んじて(?)受け、幸村はひたすらに上田の城下を駆け抜けた。町民の不思議そうに振り返る顔すらはっきり見えず、勿論声など聞こえないというのに、後ろから追い掛けてくる彼の足音だけはやけに響いて、幸村は知らず焦りながら速度を上げた。自分の身体能力が劣っているとは思わないが、どうも勝っているともつかない。体力では、口惜しいけれど幸村が下回っている。着かず離れずのこのままの速度ならば、切れるのは幸村の方が先である。そこまで論理的に考えられたが、そこまでしか論理的に考えられない。彼は重そうな服を着込んでいる癖に、足音も軽快にそこそこの速度で走っている。
幸村は焦った。何故か追い付かれてはいけないと思った。そもそも何故こんなことになったのか、幸村は目を回しながら重たい頭を動かした。


『あそこに一本だけでかい木があるじゃん?あそこまで俺に捕まらなかったら幸の勝ちな』


振り返ると彼はもう走り出す準備に入っていた。詰問する暇も余裕もなかった。後ろで、よーいどん!と聞こえたときには、幸村は脱兎の如く、走っていた。
そうだ。幸村は理不尽にも、理由も与えられないまま走らされているのだ。理由を知りたくば止まって彼に聞けば良いのだが、幸村は先立つ嫌な勘により、止まれずにいる。
何故こんな目立つ戦装束で彼に会ってしまったのだろう。普段着ならば、多少走り難くとも目立つことはないというのに。地の利のある幸村を少し見失おうと、町民に 「赤い服着た奴がこっちに走って来なかった?」 と聞けば彼はそれで済む。雑木林の真っ只中にある、彼曰くのでかい木とやらに向かうにも、やはり緑から弾かれるようにこの鮮やかな赤色は景色から浮いて見える。となれば足の問題だが、ここで幸村は思い至った。
少しだろうがなんだろうが、ある程度引き離したはずの距離を、彼は悉く詰めてくる。それが何回もあれば大なり小なり疲れてくるというものを、張り付く足音を聞く限りではその気配も期待できない。つまり、対等だと思っていた瞬発性、機動力両方ともが彼より幸村は劣っているのだ。
何たる無様!と自分の情けない在り体を嘆くより速く絶望が押し寄せてくる。心なしか後ろの足音も迫っているように思える。
このままでは捕まる。
捕まって幸村の何かしらが悪くなるかなど見当も付かないが、彼の遊び気質から碌なことにはならないだろう。
城下を抜け、幸村は雑木林に突っ込んだ。枝を折り、土を荒らし、林を突っ切る。落ち葉から生る恵みの土を落ち葉諸とも蹴り上げ、幸村は走る。人気のないこの場なら見失ったら最後、彼の助力になるような人間はいない。後は時間が味方である。彼もそう思ったのか、足音が歩調を変えた。
捕まってしまう。
見開かれた目は容赦なく流れ込む風で潤み、目尻で涙と汗が混じる。鉢巻は汗で色を変えて足は何やら鉛になったようだ。


「つか、まえ、」


直ぐ後ろで、微かに声が聞こえた。振り返るのと同時に腕が掴まれ、


「…た!」


ぽきん。


次いで幸村の中で何かが外れる音が鳴った。
幸村は、形容し難い疼痛に肩を押さえて仰向けに土の上へ転がった。その上へ、更に彼が被さるようにして倒れる。城下からここまで、相当な運動量を要したに違いない。継ぎ目などないくらい懸命に、てんでんばらばらに、呼吸をする。彼が上下する度、外れた幸村の肩はきしきしと痛んだ。目尻が熱い。幸村は、溜った涙を、肩を押さえていた右腕で拭おうとして、諦めた。彼が邪魔だったからである。


「…ぅあ、」


幸村も彼もかなり力の加減がわからなかったのだろう。幸村の速度と幸村の腕を引き寄せた彼の腕力が災いして、結果幸村の腕は丸々一本肩から外れてしまった。
肩の周りがじんわりと灼けるような痛みを孕む。幸村はむずがるように唸り、彼の頬骨に頬を寄せた。ごつりと硬い感触がする。彼の着ているものから汗の匂いが沸き立つ。そして、少しだけ、土の匂いも。
肩幅が広く、かっちりした体型の彼を幸村はちょっとだけ羨んだ。


「アンタさ、血の匂いがする」


そんなに臭うかと鼻を鳴らしたが、日頃着ているのだからわかるはずもない。犬ではないのだ。
幸村は僅かに首を回した。肩口で深呼吸を繰り返した彼が、もう一度言う。


「血でできてんのかってくらい、匂いがする」


幸村は彼の着ているものに鼻を擦り寄せた。獣の毛と併せてできているのか、見たことのない服を着た彼から聞く話はいつも鮮烈極まりない。そう、あの日も。
戦場の中で、生温い風が吹いて、赤い赤い赤い武田軍から焙れるようにして立つ彼が、血に塗れて疲れて倒れていた幸村を哀れむようで慈しむような、苛々させる目で見ていたあの日も。


「なあ」


彼は上半身だけ起こし、幸村の目を間近に覗き込んだ。親指で幸村の代わりに、手荒に幸村の目尻を拭う。けれどまた涙と汗が混じりながらこめかみを伝った。


「攫って良い?」


どこへ、とか、戯れが過ぎる、とか、言うことは五万とあるはずだった。なのに幸村はぽかんと口を開け、茫然と彼を見た。余程その幸村の顔が面白かったのか、彼は嬉しそうに笑った。


「俺の全部あげるから幸の全部欲しいや」
「戯れが過ぎまするぞ」


よし。ちゃんと言えた。幸村は小さく拳を握る。
彼は幸村の顔の横に肘を置き、目尻に頬を寄せた。目から出る涙の暖かさを改めて痛感し、幸村は痛む肩を一撫で二撫で。


「慶次殿」
「ん?」
「重い」


笑いながら、彼は身を起こす。幸村の横にあぐらを掻き、ふと頭上を仰いでまた笑った。


「見ろよ幸」
「 ? 」
「あと二、三歩で幸の勝ちだったぜ」


ということは、この雑木林で一番高い木があるのだろう。そう思って仰向けのまま幸村が見た目の前にあった木は、近すぎて、本当に一番高いのか幸村にはわからなかった。





(誰も知らなくて良い。自分だけが知っていれば良い。あの、開かれた目に映えた、万華鏡のような様々な感情の中で揺れていた、淡い期待の色を。嗚呼、もう、この子を早々に攫ってしまえたら、良い)
良いのにな。




ちょとつ塞哀もうしん奪求